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障害者のいる家族像

夫とふたりのときは、「障害者と介助者」という目で見られるのは、まあしょうがないかなと思って、かなり譲歩しつつも受け入れていた。例えば、お店で夫が欲しいものがあって店員さんに話しかける、そうすると店員さんは私に話しかけてくるということが、本当に多い。夫が声を掛けたのに、スタッフさんや店員さんが私に向かって話してきた場合、私はスルーして、「本人と話をしてね」というオーラを出している。でも、それもお店によって対応が違ったり、年齢が若い方ほどいわゆる“障害者”である夫にも自然に対応してくれることが多いように思う。

子供ができて、4人家族になってくると、「障害者のいる家族像」というのが、日本ではかなり固定されているように感じるようになった。世の中には、障害を持っていても家庭を築いている人は本当にごく当たり前のようにいるのだけど、どうも障害者は常に介助されていて、子供もいることがあるというイメージを抱かれていないような気がするのだ。

旅行に行って、バリアフリールームを予約しようと思うと、ほとんどのホテルでツインルームしか用意されていない。子供たちが小さいころは4人で泊まれたけれど、小学生以上になるとツインルームは厳しくなってくる。夫は和室の利用は厳しい。そうすると、バリアフリーでさらに和洋室を探さなくてはならなかったりして、またハードルが上がってしまう。探しても探しても宿泊先が見つからなかったりすると、本気で「普通に家族旅行がしたいだけなのに、出掛けたらいけないの?」という心境になっていく。

スポーツ観戦だったり、プラネタリウムのように、座席指定で何かを見たりする場合もモヤっとすることは多い。車いす席はあるけれど、その横に座れるのは介助者1名だけ。家族で見に来るという発想が、現場などにはそもそもないのだと思う。私と子供たちは普通の席で座り、夫はひとりで車いす席に、というのは、別に大した問題ではないけれど、やっぱりちょっと寂しく感じる。

車いす席にしろ、車いす用の駐車場にしろ、必要な人はごく少人数しかいないという前提があるのだと思う。車いすの人はいつも介助者とふたりで行動しているという固定概念を取り払って、幼い子供を持つ親も、そこら中に普通にいるのだと少しずつ知ってほしい。

東京パラリンピックが近づき、アスリートの方たちへのリスペクトはとても感じるようになってきている。小学校にパラリンピックの選手が来て交流するのもとても意義のあるものだと思う。だけど、その反面、日常ではどんなことに困るのか、どんな不便なことがあるのか、そういう街の中にいる一般の障害者へつなげていく教育は、まだまだ足りないような気がしている。

念のために記しておくけれど、「障害者」の表記を問題視する声もあるようだが、当事者はただの記号程度にしか思っていない。「健常者」と「障害者」という言葉があるから使っているだけのことだ。「障害」を生んでいるのは社会や環境のほうだから。


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