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国枝選手にユニクロが報奨金1億円!

国枝選手ご本人のSNSで報奨金について報告されていた。
ユニクロのプレスリリースはこちら。https://www.uniqlo.com/jp/ja/contents/corp/press-release/2021/09/21090915_news.html

日本の車いすテニスの第一人者である齋田悟司選手が、車いすテニスの海外ツアーを回り始めたころ、オランダの選手たちはプロのアスリートとして、その地位を確立していた。
日本では、障害者スポーツのアスリートがプロになるという発想そのものがなかった時代だった。
齋田選手の影響を受けた国枝選手が、世界へ目を向けるようになり、大学生になって本格的に海外ツアーへ参戦するようになっていった。

2003年、大学2年生で車いすテニスの国別対抗戦、ワールドチームカップで日本代表として参戦し、日本を初優勝の立役者となり、2004年、20歳でアテネパラリンピック、ダブルスで金メダルを獲得。
2006年に世界ランキング1位となり、2008年北京パラリンピックでシングスの金メダルを獲得、翌2009年4月にプロ転向への宣言をした。

当時、障害者のアスリートがプロに転向するということ自体が物珍しかった。だが、国枝選手は、そこからさらに国内外で存在感を増し、一流のアスリートとして活躍し続けた。

国枝選手のなにがすごいのか。
以前にもnoteにまとめたことがあるけれど、ここでまたおさらいをしておきたい。

国枝選手は、強いからすごいのはもちろんなのだけど、いちばんにすごいところは、「車いすテニスを変えた」ところなのだ。
国枝選手が、パラリンピック初出場した2004年のアテネから、2008年に北京でシングルスの金メダルを獲る間に、国枝選手は車いすテニスを変えてしまった。
今でこそ、バックのダウン・ザ・ラインが代名詞となっている国枝選手だが、この4年の間に、”バックハンドをトップスピンで打つ”という、車いすテニス界では考えられなかった技術に取り組み、モノにしたのだった。

車いすテニスのバックハンドといえば、スライスで返球するのが常識だった時代に、トップスピンを取り入れ、車いすテニスに変革をもたらした国枝選手は、その技術によって、自分の首を締めることにもなっていく。
若手選手はみんな国枝選手のテニスを真似するようなり、車いすテニスはどんどんボールの速さ、チェアワーク、すべてのスピードがアップしていった。
いわゆる”障害者スポーツ”、”リハビリスポーツ”から、テニスの中の1種目へと昇華していったのだった。
周りの選手たちの技術、スピードが上がっていくことで、国枝選手も苦しめられることになる。だが、それを国枝選手は歓迎していたし、そして、それでもなお、世界ナンバー1であり続けた。

2016年のリオのころは、肘を痛め、シングルスではメダルを獲得できず、その後も長く怪我と向き合うことになったが、バックハンドのフォームを改造することで、ふたたび世界の頂点に返り咲き、ふたたび金メダルを獲得した。
国枝選手は、自分で車いすテニス全体の質を上げ、周りの選手たちがレベルを上げると、それを利用して、さらに自分自身がレベルアップしていっていいるように思える。
だから、この先もきっとまだまだ車いすテニスのプレーは面白さを増していくのだと思う!

語りたり足りないなあ!!

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