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現代文明批判

現代文明の特徴


 現代文明の本体は,西洋文明です。もちろん,地球上には東洋文明もイスラム文明もあります。しかし,資本主義経済・民主政治や近代科学・民衆教育など,現代文明の土台を形成したのは西洋文明です。すなわち,「西洋文明こそ現代文明の源泉である」と言っても過言ではありません。
 では,西洋文明の本質とは何でしょうか?それは,キリスト教信仰です。キリスト教の信仰があったからこそ,マックス・ヴェーバーが言ったように資本主義経済が生まれ(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」),リンゼイが述べたように民主政治が誕生し(「民主主義の本質」),下村寅太郎氏が論じたように近代科学が産出されたのです(「近代科学史論」)。

現代文明の落とし穴


 西洋人は,古代ギリシャ・ローマの時代を「異教時代」と呼びます。なぜなら,唯一絶対の神を知らず,キリスト教を知らなかったからです。当初,キリスト教はローマ帝国による大迫害を受けました。が,ローマ帝国の必死の抵抗にも関わらず,最終的にはキリスト教が勝利。つまり,キリスト教が民衆の心に浸透し,教会が圧倒的な力を持ち,遂にはローマ帝国によって公認されたのです。
 キリスト教の勝利により,文明は著しく変質しました。古代ギリシャ・ローマの時代,最も尊ばれたのはポリスであり,「国家に尽くす公共心」こそ偉大さの証でした。しかし,キリスト教徒が重視したのは永遠の命であり,「個人の幸福」こそ最重要の問題でした。国家から個人へ,公的関心から私的関心へ。つまり,キリスト教の侵入によって失ったのは,古代人が有していた「正義の観念」だったのです。エドワード・ギボンが「ローマ帝国衰亡史」において結論づけたように,キリスト教が古代世界を粉砕したのです。

強制された多様性


 キリスト教徒が信じた恵みの神は,人間を愛する存在です。しかし,「神が人間を愛する」という信仰が,いつしか堕落し,「神は人間を愛するべきだ」に変わり,人間中心の世界観,絶対的な神なき人生観に陥ってしまいました。近代のヒューマニズムは,キリスト教がもたらした当然の帰結といえるでしょう。
 しかし,宇宙の中心は神であって人ではありません。宇宙は人間のために創られたのではなく,神のために創られたのです。人が救われても神は神であり,人が滅んでも神は神です。「己の幸不幸など,絶対的な神の前では無に等しい」これが,正しい信仰者のあり方ではないでしょうか。
 絶対的な正義の観念を失った時,人間は寛容な心,すなわち,多様性を失います。多様性とは,「様々な価値,相反する複数の価値が並存することを許すこと」です。違う言い方をすれば,何か一つの価値が他の価値を侵害しないよう防御することです。「あらゆる価値を守護する絶対的な正義が存在する」と信じるからこそ,多様性は成立します。マキャベリが喝破したように,正義は多様な価値の土台なのです(「政略論」)。絶対的な正義,絶対的な神なき多様性は,必ずや「多様性という名の押し付け」に至ります。つまり皮肉なことに,多様性という価値が,すべての価値を殺すのです。また,絶対的正義なき文明は,徐々に公共心・愛国心を喪失していきます。なぜなら,私的幸福に目が眩み,物事を俯瞰して観察できなくなるからです。多様性の押し付け,愛国心の欠如,私的幸福の絶対化,これが現代社会の趨勢といえるでしょう。

預言者精神の復興


 私たち現代人は,自分たちの文明的欠陥を自覚し,新しくやり直さねばなりません。本当に多様性ある社会を実現したければ,その根本である正義の土台を人生観に据えなければなりません。では,人類史上,最も崇高な正義の理念とは,一体何だったのでしょうか?日本の武士道でしょうか,それとも,ギリシャ・ローマ的なポリスの倫理でしょうか?いいえ,武士道は形式的であり,ポリス的倫理は利己的です。前者は儒教的儀礼によって,後者はギリシャ哲学に内在する功利主義によって,正義の中に混ぜ物が存在するのです。この地上に実現した最も崇高な正義は,古代イスラエルの預言者の正義です。イザヤ・エレミヤ・エゼキエルから始まり,イエスにおいて絶頂に達した預言者精神。彼らの信仰こそ,正義中の正義といえるでしょう。
 神はエレミヤに言いました,「お前はわたしの代弁者として,国民の大堕落を糾弾し,わたしの代わりに警告を発さねばならない」と(エレミヤ書1-5)。しかし,エレミヤは神にこう答えました。「私はまだ若くてその任務に耐えられません。しかも,わが同胞は私を憎み殺すでありましょう」(エレミヤ書1-6)。しかし,神はエレミヤにこう告げます。「お前はお前の使命を果たさねばならない。神であるこのわたしが命じたのである。お前が若かろうが死のうが,そんなことは問題ではない」(エレミヤ書1-7)。そして若きエレミヤは,国家的危機を国民に警告して神の御用を果たし,最後には殉教の死を遂げたのです。このエレミヤの態度こそ,真の正義と呼ぶべきありましょう。
 旧約の預言者が抱いた神への信仰,この信仰によって,初めて正義の観念が形成されます。正義の観念が確立されて,初めて自由の基礎が据えられます。自由の基礎が据えられて,初めて多様性ある社会が実現し,異質な価値観の対話により,真の社会的発展が成就するのです。正義なきところに,真の発展はありません。正義なき文明の行く末は,弱肉強食の競争社会(アメリカ)か,偽りの平和に安住した停滞社会(日本)です。

「正義は国を高め,罪は国民(くにたみ)をはずかしめる」(箴言14-34)

追記:キリスト教の本質


 イエスの十字架は,厳密に言えば,神の愛の顕現ではありません。こうした甘ったるい発想は,新約聖書のみに目を注ぐことから生じます。旧約聖書との関連から言えば,イエスの十字架は正義の絶頂です。つまり,キリスト教の本質は,正義であって愛ではありません。キリスト教の本質を愛だと勘違いするから,神を恵比須様のような福の神と錯覚し,自分の幸福ばかり求める功利的精神に陥るのです。哲学者フォイエルバッハが鋭く指摘したように,「天国に入りたいという利己的な衝動」を内に秘めたキリスト教は,超越論的エゴイズム以外の何ものでもありません(「キリスト教の本質」)。
 旧約から新約に流れる信仰,イエスの十字架により絶頂に達した正義は,愛を超えた神聖な精神です。自分一人の救いを求めるキリスト教的信仰は,イエスの説いた福音でないどころか,自分の幸福に執着するという意味で迷いの一種です。つまり,己の救いを求めていること自体,救われていない証拠なのです。救われた人間,イエスの福音を真に理解した人間は,万人の救い(神の国)を求め,世界と人類の運命を担い,己の救いを忘れてしまうはずです。
 多くの敬虔なキリスト教信者の皆さんは,私のような無頼漢(無教会・無宗教の合理主義者)の意見に,大変な怒りを覚えられるかもしれません。まあ,お気に召さなければ,受け流せばよいと思います。しかし,一つだけ忘れてはならないことがあります。聖書の最初と最後を読んでみて下さい。キリスト教の聖典である新約聖書は,正義によって始まり,正義によって終わっているではありませんか。新約聖書の劈頭(マタイ伝)では「神の裁き」が語られ,新約聖書の締め括り(黙示録)では「神の警告」が語られているのです。
 
「斧もすでに木の根元に置かれている。故に,良い実を結ばない木は,みな切り倒され,火に投げ込まれる」(マタイ伝3-10)

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれの仕業に応じて報いるために,わたしの報いを携えて来る」(黙示録22-12)
 

参考書籍です。


参考動画です。


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