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仏教的精神による福音の復興

キリスト教の間違い


 キリスト教は,キリストの福音から逸脱してしまいました。どう逸脱したのでしょうか?それは,神を客体化してしまったのです。これは哲学者フォイエルバッハも指摘したことですが,キリスト教は神を客体化することにより,その信仰が無力化してしまいました(フォイエルバッハ「キリスト教の本質」)。
 神の全能を信じて,自分が無力になってしまいました。なぜなら,すべては全能の神が取り計らって下さるからです。神の計画を信じて,意志が薄弱になってしまいました。なぜなら,すべては神が永遠の昔から定めたからです。神の全知を信じて,己の無知を助長してしまいました。なぜなら,全知なる神を信じていれば,無知でも人生をやり過ごせるからです。神の全愛を信じて,人を愛さなくなりました。なぜなら,愛するのは神の側であって,自分ではないからです。このように,あたかも目の前にモノが存在するように神も存在すると錯覚する時,人間は神を信じれば信じるほど無力になってしまうのです。
 しかし,イエスの推奨した信仰,パウロが宣べ伝えた信仰は,客体的信仰ではありませんでした。神と共に生きる実存的信仰でした。神は心の内におられ,我々は神と共に,この神なき世界を生きる。つまり,「神様に祈れば何でも適えてもらえる」的な受動的信仰ではなく,「キリストのように十字架を負って生きる」主体的な信仰。これこそ,パウロが伝え,ルターが復興し,内村鑑三やボンヘッファーが抱いた信仰だったのです。

福音の復興


 では,どうすれば,キリスト教を正すことができるでしょうか?それは,間違いの原因である客体化(オブジェクティビゲーション)を破砕(はさい)することです。ならば,具体的に,どうすれば客体化を破砕することができるのでしょうか?それは,釈迦の教えに学ぶことです。なぜなら,今までの歴史上,最も客体化を否定した者こそ,他ならぬ釈迦だったからです。
 釈迦は,当時のバラモン教の教えである「客体化された絶対者(ブラフマン)」を否定しました。なぜなら,この客体化により,人々の倫理が堕落していたからです。仏教学者は言います,「釈迦は絶対者(神)を否定した」と。これは大きな間違いです。釈迦は神を否定したのではありません,客体化された神を否定したのです。絶対者がもし絶対者ならば,言葉で表現することはできません。つまり,神は「ほら,そこにある,あそこにある」という風に指し示すことができないのです。真(まこと)の神は,ただ己の倫理的行為によって指し示すことしかできません。違う言い方をすれば,「神と共に生きる」という仕方でしか,語ることができないのです。釈迦が「神」を語らなかった理由がここにあります。
 そして,「客体化の破砕」に成功したからこそ,仏教は“高度に倫理的な教え”として多くの人々を感化しました。生きとし生けるもの全てに目を注ぎ,全てに救いを及ぼそうとする慈悲の心。客体化の呪縛から脱し,慈悲の心を持つことができたからこそ,仏教史には,暴力も,異教徒の迫害も,宗教裁判も,魔女裁判も,十字軍もない唯一の宗教になったのです。もっと言えば,客体化の魔力から抜け出たからこそ,仏教はすべてを吸収する寛容性を身に帯びることができました。それは,歴史が大文字で証明しています。
 紀元前5世紀頃に成立した仏教にキリスト教が合流して,大乗仏教(中観派)が成立しました。仏教にイスラム教が合流して,中央アジアにて浄土教が成立しました(イスラム教の特徴は,その来世観にありました)。仏教に新プラトン主義(ギリシャ哲学の粋)が合流して,光の重層世界を説く密教が成立しました。さらに,仏教に儒教・道教が合流して,現実世界の真っ只中で悟りを得ようとする禅宗が成立しました。すべての宗教を受け入れつつ,進歩・発展してきた仏教の歴史。ある宗教学者が称したように,「仏教は宗教の百科全書」なのです。自らを唯一絶対の宗教と自惚(うぬぼ)れ,異教徒を虐殺(ジェノサイド)してきたキリスト教の歴史とは正反対と言えるでしょう。

神を突破せよ!


 では,仏教の精神とは,いかなるものなのでしょうか?それは,徹底して否定する精神です(これを否定神学と呼びます)。神を否定して否定して,否定しきった先に,“真実の神”が顕われるのです。ある人はこう非難するかもしれません。「神を否定するなら,単なる無神論ではないか!?」と。いいえ,決してそうではありません。考えてみて下さい。あなたの信じる神は,本当の神でしょうか?むしろ,あなたの信じる神は,あなたの観念に過ぎない可能性があります。言い方を変えれば,あなたの願望を投影した偶像に過ぎないかもしれません。
 「神がいる(神が存在する)」この言葉には,大きな矛盾があります。というのも,「神(テオス)」の前に,「いる(エスティン)(存在)」が前提されているからです。何かを前提にする神など,絶対的な神ではありません。ハイデガーも述べているように,存在(いる)は神の前にあるのです。故に,我々が求めるべきは,存在であって神ではありません。言い換えれば,我々が求めるべきは,「神以前の神」なのであって,「客体化された神」ではありません。
 仏教のやり方に従って,“否定の道”を突き進んでみましょう。この“否定の道”に関しては,釈迦の教えを再興した龍樹(ナーガールジュナ)(大乗仏教の祖)が詳しく述べています(「中論」)。ただし,この龍樹の否定的論理は,非常に抽象的に記述されていますので,私なりに解釈して説明します。まず,あなたの信じている神,つまり客体化された神を否定します。すると,心の中に存する神,いわゆる「神性(仏教的には仏性)」が現れます。次に,心の中に存する神性も否定します。なぜなら,絶対者を心の中に閉じ込めることもまた,一種の客体化だからです。すると,剥(む)き出しの「存在」が現れます。しかし,存在という名のつく存在もまた,一種の客体化に過ぎません(老子「道徳経」)。故に,存在もまた否定します。つまり,“ある(存在)”もない(無)のです。こうして,一切の形而上学(神学的概念)を斥(しりぞ)けることにより,逆説的に一者をうきぼりにするのです。その結果として得た境地を「空」と呼びます。この境地は,エックハルトのいう「神の子の誕生」であり,パウロのいう「私が死んでキリストが生きる(主語の転換)」信仰と同一のものといえるでしょう。

究極の境地


 一切を否定した後に残るもの,それを仏教では「無」とか「縁起」と呼びました。この無にせよ縁起にせよ,非常に誤解されていると私は考えています。無は,「ない」ではありません。哲学的な虚無主義(ニヒリズム)ではありません。こうした解釈は,西洋的論理によって無を考えるから生じるのです。東洋的論理における「無」とは,“完全な空虚”ではなく,逆に“無限の充溢(プレーローマ)”です。圧倒的な創造的エネルギーの奔流(ほんりゅう)です。中国の禅僧・無門慧開(むもんえかい)は,無に達した境地を「大力量人」と呼びました(「無門関」)。つまり,無とは,「神の創造の業に参与すること」なのです。
 また,縁起とは,運命的な出会いではありません。すべてのものが互いに互いを必要とし合い,すべてのために自らを捧げる境地のことです。つまり,縁起とは,存在の無限の関係であり,主観的には愛の行為であり,愛こそ神的創造の本質なのです(天才は作品を創造する。しかし,愛は赦された人を変える。つまり,人間を創造する)。無と縁起は「創造」という一点において合一するのです(無と縁起はコインの裏表の関係)。
 イエスは言いました,「わたしを信じる者は,わたしと同じことをするようになる」と。その意味は,「キリストを信じる者は,神と共に創造するようになる」ということです。福音書にある“タラントの譬(たと)え”にもあるように,我々は一人一人,唯一無二の独自性と創造性を与えられて,この世にやって来ました。が,キリスト教は,神を客体化することにより,イエスの教えの真髄である「創造性」を見失ってしまいました。我々は今こそ,“キリスト教の教え”ではなく“キリストの教え”に立ち返り,神の子の創造性に目覚めねばなりません。
※福音の本質である創造性を復権しようとした者に,ロシアの思想家であるフョードロフやベルジャーエフがいました。曲解されたキリスト教的思想から抜け出すためにも,彼らの思想は襟(えり)を正して聞くに値します。
 

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