見出し画像

< 「君民共治」とは何か? 魔女のエネルギー療法講座より抜粋 >

魔女のエネルギー療法講座の後半「魂編」の中で、日本人の信仰についてお話しする回があります。以下はその講座の一部を文章化したものです。

「神道とは何か?」について、これまで様々な文献をあたってきましたが、言語化するのが難しいため、代わりに図象で可視化しながら説明したいと思います。
その一つが下記の<たての“わ”とよこの“わ”>の図です。

「魔女のエネルギー療法講座」9日目板書より

我が国は欧米のような「階級社会」ではなく、基本的に「分掌分業社会」であり、そこには非常に水平感があります。いわゆる「マルチョン」の世界観です。
江戸時代の「士農工商」ですら「役割分担」のニュアンスが強かったようですから、学校でこれを「階級」として教えられたのは、戦後の左翼的(マルクス主義的)価値観から来る偏見だったわけです。
この水平な「よこの“わ”」は、実社会を形成する横の繋がりを表します。
それは互いを思いやる心であり、他者への気遣いや利他心、共同体意識等と言い換えられます。
日本は「和の国」とよく言われますが、これは自他ともに認めるところではないでしょうか。そして日本人の中にこの「よこの“わ”」が失われていなかったことを、3.11の震災のときに世界に示しました
私たち自身もまた日本人であることを自覚した…つまり「日本人として目覚めた」のも、このときだったのではないかと思うのです。

我が国は縄文時代以来、上下感のほとんどない共同体社会を築いてきました。
縄文時代の竪穴式住居は円形ですが、集落も円形に広がっており、多少の違いはあっても、どれが地位の高い人物の住居か分からないといいます。そして中央広場には先祖の墓がありました。縄文人は先祖の霊と共に生活していたのです。
「マルチョン」のチョンにあたるのは「まとめ役」の存在です。真ん中にいるのはまとめ役としての「神(ご先祖様の霊)」であり、「長老」の存在でした。おそらく「長老」は、その村で最も古い血筋を持ち、先祖の霊を降ろす語り部であり、墓守であったと考えられます。これが後に祭祀王としての「天皇」になるわけです。

英語圏では自分の先祖を「ルーツ」と呼び、根っこに例えて「下」に見ますが、日本人は「先祖代々遡る(さかのぼる)」と言うように「上」に見ます。
「上」は「かみしも」の「かみ」であり、ご先祖様は「かみ」様です。
これは頭髪を「髪(かみ)の毛」と言ったり、役人を「お上(おかみ)」と言ったり、宿や料亭の仕切り役を「女将(おかみ)」と呼ぶのと大差ありません。最近ではほとんど使われませんが、自分の奥さんのことを「うちのカミさん」と呼ぶのも同じことです。そういう意味で「天皇は神である」という言い方は、当時も今も何も間違っていません。戦後に昭和天皇が「人間宣言」をしたとされますが、天皇が人であることくらい、当時から誰もが知っていました。
そして日本人のご先祖様を遡っていくと「高天原の神々」に行き着きます。高天原の神々は日本人の「先祖の霊」であり、古事記や日本書紀に描かれた天孫降臨の神話と、現在の日本人は直結しているわけです。
このことを戦前のフランスの文化人類学者レヴィ・ストロースは、羨望の眼差しを込めて「神話と歴史が連続している稀有な民族」と日本人を評しました。

日本人の「神」に対する概念はこうしたものであり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に見られる唯一絶体の「全能の神」とは全く異なります。
芥川龍之介の小説「捧教人の死」には、バテレンの神を「デウス様」と呼び、日本の神々とは明確に区別されている様子が描かれています。戦後になって、日本の神も外国の神も一緒くたにしたことから様々な誤解が生じたと言えるでしょう。
戦後GHQは、本気で日本人をキリスト教化するつもりでした。皇族の子息にクリスチャンの家庭教師をつけ、聖書を3500万部も無償で配ったことからもその本気度が伺われます。実際に1980年代まで日本はバチカンの重点布教区でした
こうして日本の「神」をキリスト教の「神」に置き換えたかったのかもしれませんが、現在もキリスト教の信者は人口の1%程度に過ぎません。半世紀かけても日本人はキリスト教化されなかったのです。

しかし一方で、GHQの最重要課題だった「民衆と皇室の紐帯を断ち切る」という政策はある程度成功したかに見えます。
学校教育で神話を教えるのをやめさせた上に、歴史教育も封殺しましたし、皇室祭祀と国民の祭日・祝日が一致しているのが気に入らなかったのか、ご丁寧に「明治節」を「文化の日」に、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」に名称を変えてきました。
国際法を破って新憲法を導入したのも、日本に共産革命を起こさせ、日本人自身にに天皇を倒させる目的があったといいます。これは田中英道先生の学説ですが、共産党を政党として公認したことから始まり、暴力革命を鎮圧されては困るので国軍を廃止し、国家権力に対する国民の権利を執拗に記述しているのはそのためだというのも納得できます。当時のGHQには共産主義者が多く入り込んでいたことも分かっています。
そんな共産主義革命のためのいびつな憲法が、戦後自衛隊がアメリカが起こした地域紛争のコマとして使われるのを防ぎ、今や闇堕ちした政権に、ワクチンの強制接種等の“国民を拘束する権限”を阻んでいるのだから、巡り合わせとは不思議なものです。やはり日本と日本人は守られているのかもしれません。
いずれはこのいびつな「日本国憲法」を廃止し、日本人の手で造り変える必要がありますが、今の政権にそれをさせるわけにはいきません。ワクチンによる国民の殺戮に手を染めた犯罪政権ですから、その前に彼らにはブタ箱に入ってもらう必要があります。

残念なのは「たての“わ”」が弱くなっていることです。
ご先祖様との霊的な繋がりは「家」の破壊によって随分進みましたし、「核家族」化で祖父母への敬意を子供たちに示す機会も減りました。そして神話を学ばなければ、皇室と国民の関係も理解できません
かつてイギリスの歴史学者アーノルド・トインビーは「12歳までに神話を学ばなかった民族は必ず滅びる」と断言しています。数百年に及ぶ植民地政策によって数多の民族を滅ぼしてきた大英帝国の学者だけに、その言葉には説得力があります。
歴史と伝統の蓄積ゆえにまだ滅んではいませんが、今や我が国もその轍を踏んでいるのです。

そしてもう一つ、我が国にはかつて理想的な民主主義のシステムが存在したことを思い出す必要があります。
古事記と日本書紀が編纂された前後の200年間は、価値観が大変動した「国難の時代」でした。ちょうど聖徳太子の一七条の憲法制定からはじまって、平安京に遷都するまでの期間です。このときに確立した「公地公民」制と「律令」制は、名称こそ唐に倣ったとは言え、中身は縄文時代以来の“水平感”のある、実に日本的な政治のあり方でした。
それは一言で「権威と権力の二権分立」と表現できます。政治権力者は貴族であれ、幕府であれ、天皇という「権威」から任命されることでその「権力」を得るという形です。
人間社会ではこちらを立てればあちらが立たずという問題が必ず生じます。しかしどちらかを選択しなければいけない。そこで「権力」を振るえば、必ず誰かが泣きを見ます。誰かから恨まれることになります。未来がわからない以上、決めたことが裏目に出ることもあります。権力と権威が一致していると、失政によって権力者の権威にも傷がつきます。こうして歴史上の多くの王朝が権威を失墜し、台頭してきた勢力に倒されました。そしてその失政の責任は誰が取るのか…? 権力者に対して責任を追求する存在がいないのです。
この問題を解決する方法が、権力を持たない「独立した権威」を立てることでした。これが以下の
「皇(こう)」
   ↓
「臣(しん)」
   ↓
「民(みん)」

という関係です。「臣(しん)」というのは律令制の役人のことですが、この表現は今でも「大臣」という言葉で残っています。この「臣」が平安貴族であっても「征夷大将軍」を拝命した武家幕府であってもいいわけです。
しかしこの序列のままだと、「民衆」という水平の“わ”の上に垂直方向の力が立ち上がってしまい、円錐形のいびつな形になってしまいます。これではピラミッド型の階級社会と変わり映えしません。では水平感を損なわないためにどうするか…?
最高権威である「天皇」が「民」を「おほみたから」と呼び、権力者である為政者がその「おほみたから」を預かる形にすれば、権力者は「民」を私物化できず、「民」の幸せと「社会」の安寧のために奉仕する「責任」が生じます。つまり
「皇(こう)」
   ↓
「民(みん)」
   ↑
「臣(しん)」
という、「民衆」を中心に考える政治体制がここに出来上がります
これが第16代仁徳天皇のお言にある「君は民(たみ)を本(もと)とす」に象徴される「民本主義」と呼ぶべき政治思想です。

<第十六代仁徳天皇 “⺠のかまど”の逸話>

高き屋(や)に 登りて見れば 煙(けぶり)立つ ⺠の竈(かまど)は にぎはひにけり

仁徳天皇が難波(なにわ)の高津宮の高殿(たかどの)に上り見ると、どこからも炊事の煙が見えない。国⺠(くにたみ)の窮乏を嘆いた仁徳天皇は、課役を 3 年間免除し、自らも質素倹約につとめ、宮殿の修繕も行わなかった。
荒れた宮殿に言及された皇后に対して「⺠が豊かになるのが私が豊かになることだ」と仰せになったという。 上記の和歌は後に煙を見ておよろこびになった時の「新古今和歌集」に残る御製である。
「日本書紀」には仁徳天皇の「天が君を立てたのは⺠(おおみたから)のためである」の言葉が記されている。 おおみたからは「大御田殿等」と書くことができる。つまり農⺠たちのことだ。仁徳天皇は治水事業で大阪平野 を豊かな耕作地帯にするなど善政を行い、のちに聖帝(ひじりのみかど)と賞賛された。
さらに重要なのは歴代の天皇がこの“⺠のかまどの逸話”に敬意を払い、模範にしていることである。先の東日本大震災でも、今上・皇 后両陛下は被災地や避難所を何度も巡り、被災者を激励された。厳しい寒さの中でもお住まいの御所(ごしよ)の 自主的な停電を行い、暖房も使われなかった。苦難を分かち合う大御心は数千年来何も変わっていない。

「魔女のエネルギー療法講座」9日目レジュメより抜粋

権力者は民衆のために奉仕する存在になり、権力者によって私物化(奴隷化)されることがないという開放感この“自由さ”が民衆の創造力の土台になっていると言ってもいいでしょう。これが日本人の「結び」の力です。世界中から良いものを取り入れ、洗練させる「日本化する力」と言ってもいいかもしれません。
この「たての“わ”」「よこの“わ”」の中央にあるからこそ、二つの輪が球体を成して確固としたものとなっています。そう言えるのは、このたての“わ”がひっくり返って「皇」が一番下に来ても同じだからです。「天皇」が民のためを思って祈り、高天原と繋がってくれているからこそ、民の安寧が約束されている「天皇」はある意味で最も自由がない存在であり、「天皇」こそ民衆に奉仕しているとも取れるのです。
そんな「天皇」の民の幸せを願う「大御心」と、皇室が存在していることで、自分の出自が高天原の神々であることを担保していることに「民」は心から「感謝」し、「報恩」の気持ちを忘れない。もっと言えば「民」の方から「お願い」して「皇室」をやっていただいているという関係です。
国民と皇室は「相思相愛」なのです。これが「君民共治」のあり様です。

日本は「和」の国といいますが、「和」とは何か?を紐解けば、「仲睦まじく」という意味の他に「利他心に基づき、お互いに全体善を慮って行動すること」と定義できます。
この定義にたどり着くまでに結構時間がかかりましたが、この「全体善」という言葉は船井幸雄先生の言説からいただいたものです。かつて船井先生は「全体善を慮ることができるのがエリートというものだ」と言っていました。でも日本人は一介のバイトであっても、企業の看板を背負っているという自覚ができる。だから「日本人はみんなエリートだ」というのです。

そしてこの「利他心」や「全体善を慮る心」は「愛」の表れひとつと言えるでしょう。しかもとても大きな「愛」です。そして「天皇」ご自身がそれを体現されている。そういう意味で、少々口はばったいですが、日本は「愛」の国です
キリストの教えは「愛の教え」ですが、日本人はわざわざキリスト教から「愛を学ぶ」必要なんてないのです。
私たちはこのことをもっと自覚すべきでしょう。

以下にいくつか資料を転載します。

<天皇の四方拝>......ねずさんのブログより転載

四方拝(しほうはい)は、毎年元旦に天皇が行われる行事です。
戦前戦中までは、四方節(よほうせつ)と呼 ばれていました。まだ夜が明けない早朝、天皇が特別の建物に入られ、四方の神々をお招きして、そこで祈りを捧げられます。
知らす国において、天皇は臣⺠を代表して神々と繋がる御役目です
その天皇が神々に「ありとあらゆる厄災は、すべて我が身を通してください」と年のはじめに神々に祈られるのです。お招きされる 神々は次の通りです。
伊勢神宮(皇大神宮・豊受大神宮)
天神地祇
神武天皇の陵(みささぎ) 先帝三代の陵(明治天皇、大正天皇、昭和天皇) ・武蔵国一宮(氷川神社) ・山城国一宮(賀茂神社)

石清水八幡宮 ・熱田神宮 ・鹿島神宮 ・香取神宮
そして次のように祈りを捧げられます。

賊冦之中過度我身 毒魔之中過度我身 毒氣之中過度我身 毀厄之中過度我身 五急六害之中過度我身 五兵六舌之中過度我身 厭魅之中過度我身 萬病除癒 所欲随心 急急如律令
「中過度我身」は、中過:中を過ぎよ 度:かならず 我身:我が身をですから「◯◯は、かならず我が身中 を通りすぎよ」と祈られるわけです。
そして最後に萬病除癒(万病を取り除き癒せ) 所欲随心(欲するところは神の御心のまにまにあり) 急急如律令(その成就よ速まれ)と祈られています。
要するに陛下は、新年のはじまりにあたって、誰よりも早く起きて、 ありとあらゆる厄災は、自分の身にこそ降りかかれ。 そして万病が取り除かれ、⺠が癒やされるよう 自分の心は神々のまにまにあるのだから、厄災は我が身にのみ先に降りかかれ、と祈られているわけです。
その厄災とは何かといえば、 「賊冦、毒魔、毒氣、毀厄、五急六害、五兵六舌、厭魅」です。 「賊冦」は、危害を加えようとする悪い賊です。 「毒魔」は、この世に毒を撒き散らす魔です。いまの時代ならメディアかも。 「毒氣」は、人に害を与える悪意です。
「毀厄」は、人を傷つける苦しみや災難です。 「五急」は、五が森羅万象を示す五行(木火土金水)、これが急というのですから突然発生する自然災害のこ とであろうと思います。 「六害」は、十二支(子丑寅卯辰⺒午未申酉戌亥)の中の二つの支が、互いに争う害を言います。要するに先 輩後輩や世代間の争いなどですから、ひとことでいえば人災のようなものを意味します。
「五兵」は、戈戟鉞楯弓矢のことで、戦火のことを言います。 「六舌」は、二枚舌どころか六枚舌ですから、外交による害のようなものです。 「厭魅」は「えんみ」と読みますが、人への呪いのことをいいます。

四方拝では、今上陛下が神々に、 「これらの厄災は、すべて我が身に先に振りかかるようにしてください」と祈られるわけです。
そして、この四方拝が皇居において元旦の早朝に行われ、夜が明けると、一般の⺠衆(臣⺠)が氏神様に初詣に行きます
天皇がすべての厄災をお引き受けくださったあとだから、人々は安心して神社に新年の感謝を捧げに詣でるわけですだから新年の参拝は、「拝み参らせる(参拝)」ではなくて「詣でる」です
「詣」は、言偏が魚偏に変わると「鮨」という字になりますが、「旨」は、匙(サジ)で食べ物を掬う姿の象 形文字で、美味いものがあるところに行く、という意味から、神様のところに行ってお参りすることを「詣でる」というようになりました。(以下略)           

「魔女のエネルギー療法講座」9日目レジュメより抜粋

<君が代のこと>.....ねずさんのブログより転載

古事記は宇宙創成の神々の記述のあと、五組の男女神を登場させています。
その最後に「いざなう男」である 「イザナキ」と、「いざなう女」である「イザナミ」の二柱の神がおなりになったと書いています。
大和言葉で、「キ」は男、「ミ」は女を意味します
このイザナキ大神とイザナミ大神から生まれるのが、天照大御神です。
そしてその天照大御神からの直系のお血筋が、126 代続く天皇です。
その天皇が、天照大御神様からの万世一系のお血筋として我が国の最高権威となり、⺠衆を「おほみたから」 としてくださっています。
そして我が国において、最高権力者は天皇の下にあって、天皇の「おほみたから」 が豊かに安全に安心して暮らせることを使命とする政治責任者です
責任者ですから、当然政治責任を負います。なぜなら権力と責任は、常にセットでなければならないからです

ところが人類の歴史を、我が国以外の諸国で見てみると、歴史を通じて国家最高の存在は常に政治権力者でし た。その政治権力者が、国家最高の存在として君臨し、政治権力を駆使して国を統治するというのが世界の歴史です。
つまり...国家最高の政治権力者よりも上位の存在が、残念ながらありません。
ということは、国家最高責任者に対しては、誰も「責任を求めることができない」ということです。 そうであれば、それは国家最高権力者であって、同時に国家最高の無責任者ということになります。
諸外国における国家体制の最大の誤りがそこにあります
つまり国の最高の無責任者を、国の最高権力者にしてしまっているのです。
権力だけあって一切の責任を負うことがないのなら、その後はやりたい放題です。 ひとりでこの世の贅を極め、人を支配し、人の命や心を蹂躙します。当然です。 いくらそれをしても、一切責任を負う必要がないのですから。
オジをマシンガンで肉片になるまで射殺しても、誰もその責任を追求できず、当の本人は平和の使者のような 顔をして世界の要人と会い、適当なその場限りの約束をして、すべて反故にして平然としています。
大なり小なり、人類社会が築いた社会の姿の典型がそこにあります

我が国はそうではなく、政治上の最高権力者は当然に責任を負う立場として国家の体制が築かれてきましたそれが可能であったのは、日本に天皇という存在があったからこそです。 だからかつて人は、こんな歌を詠みました。

我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで

この歌は⻄暦 905 年に奏上された古今和歌集第七の賀歌の 343 番に「題知らず」として掲載された歌です。 初句が「我が君は」になっています。つまりこれは「天皇」を意味しています。 要するに、天皇という存在のおかげで我が国の⺠が「おほみたから」とされる幸せを得ているのだから、その 天皇が、未来永劫、我が国の頂点にあってほしい、という願いを込めたお祝いの歌として詠まれているわけです。
ところが、12 世紀はじめに一般向けに編集された和漢朗詠集の流布本から、どういうわけかこの歌の歌い出しが「君が代は...」に変化しました。そして「君が代」は以後、一般庶⺠の婚礼の儀の際の賀歌として、有名な 「高砂」と並んで定番の歌謡となっていきました
実はここに我が国の庶⺠の幸せがあります
もともと天皇を称える歌であった歌が一般庶⺠に流布し、誰もが「おほみたから」であるという幸せの中で、 男である「き」と、女である「み」が結ばれる。そして子が生まれ、孫が生まれ、一族が繁栄していく その喜びの歌として、いつしか「我が君は」が「君が代は」に置き換えられていったからです
それは、日本に天皇という、政治の最高権力よりも上位の国家最高権威があるからこそできたことです日本人は、幸せです

「魔女のエネルギー療法講座」9日目レジュメより抜粋

<天皇様が泣いてござった>......しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」より

昭和 20 年 8 月の終戦後のことです。日本は未曾有の食料危機となりました。物価も高騰しました。食料の配給 制度は人々の生活を賄うに足りませんでした。不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、ど う生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配していました。
その日本人がある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がりました。きっかけとなったのが「昭和天皇の全国行幸」です。

昭和天皇の行幸は昭和 21 年の神奈川県を皮切りに、昭和 29 年の北海道まで足かけ 8年半にかけて行われました。全行程は 3万3000km、総日数は 165 日です。 実はこれはたいへんなことです。そもそも陛下の日常は我々平⺠と違って休日がありません。一年 365 日常に 式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約 2000 件を超えるご公務 です。そうしたお忙しい日々を割いて、昭和天皇は全国行幸をなさいました。

この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。
「この戦争によって祖先からの領土を失い、国⺠の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えました。しかし、よくよく考えた末、この 際は全国を隈なく歩いて、国⺠を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが責任と思う」
当時焼け野原になった日本で、人々はそれまでの悠久の大義という価値観を失い、正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかもたいへんな食料不足です。物価は日々高騰していました。お腹を空かせ た家族のために闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。嫁入り道具の着物を持ってよう やく物々交換で米を手に入れると、それを根こそぎ暴力で奪われる。まるで無政府状態といえるようなたいへ んな状況だったのです。
そういう状況から国内が一日も早く脱皮し、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。そんなときに陛下が選択されたのが、全国行幸だったのです。

未曽有の戦災を被った日本を、不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするために何が必要か。いまの世の中なら、すぐに財政出動だ、何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、あの時代に陛 下が選択されたのは、全国⺠の真心を喚起するということでした。

国⺠の一人ひとりが、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。ひとりひとりの国⺠が復興のために、未来の建設のために立ち上がる。そのために陛下は、「全国を隈なく歩いて、国⺠を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与え」ようと全国を回られたの です。

「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね。旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが 40 歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だということをね。それが生きた⺠主主義の教育というものだよ」
昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間ではこんな会話が交わされていたそうです。
ところがその結果は高官達の期待を裏切るものでした。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたけれど、石一 つ投げられることはありませんでした。
英国の新聞は次のように驚きを述べました。
「日本は敗戦し外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、⻑男が即位したものの、わずか 1 ヶ月で廃位に追い込まれています。欧米人の常識では理解できないことが起こったのです。

陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和 24 年 5 月 24 日のことです。 この日陛下はたってのご希望で、佐賀県三養基郡にある「因通寺」というお寺に行幸されています。因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にし て、それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。その歌というのが、昭和 13 年に皇后陛下が戦没者に対して詠まれた次の二首です。

やすらかに 眠れとぞ思う きみのため いのち捧げし ますらをのとも
なぐさめん ことのはもがな たたかいの にはを偲びて すぐすやからを


陛下はこのことをいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。
また終戦後には因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、 そこで戦争で羅災した児童約 40 名を養っていました。

陛下が寺にお越しになるという当日、寺に至る県道から町道には多くの人が集まっていました。 道路の傍らはもちろんのこと、⻨畑の中にも集まった方がたくさんいました。
その町道の一角にはある左翼系 の男が⻨畑を作っていました。この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の⻨畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちにすっかり心が変わってしまい、自ら⻨畑を解放して「ここで休んでくださ い、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていました。

朝 8 時 15 分頃、県道から町道の分かれ道のところに御料車が到着しました。 群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。誰が音頭をとったというものではありません。群衆の自然の発露として、この声があがりました。
御料車が停車しますと、群衆の万歳の声がピタリとやみました。一瞬、静まり返ったところに、車からまず入江侍従さんが降り立たれ、そのあとから陛下が車から 降りられると、入江侍従さんが陛下に深く頭を下げられる。その瞬間、再び群衆の間から「天皇陛下万歳」の声があがりました。陛下は、その群衆に向かって御自らも帽子をとってお応えになられる。その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。

ここに集まった人達は、生まれてこのかたお写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。その陛下がいま、目の前におわすのです。言い表すことのできないほどの感動が群衆を包み込みました。
お車を停められたところから、因通寺の門まで約 700 メートルです。その 700 メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらいたくさんの人が集まっていました。そのたくさんの人達をかきわけるようにして、 陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。
町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとは思ってもみなかったらしく、道路わきのロープもありません。陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。そして沿道の 人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったといいます。
陛下が寺の山門に到着されました。山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23 段の階段があります。その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。陛下は、その自然の織りなす姿に感嘆の声をあげられた。 陛下が足をお留めになられている時間があまりに⻑いので、入江侍従さんが陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。 そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。

寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。図書室で所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べました。
「本日ここに、90 万県⺠が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」 そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいました。 知事だって日本人です。明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。知事は陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに言葉を詰まらせてしまったのです。するとそのとき、入江侍従さんが知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。すると不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所についてご説明申し上げることになっていました。自分の前にご挨拶に立った知事が目の前で言葉を詰まらせたのです。自分はあんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせた住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出まし た。そして書いてある奏上文を読み上げました。
「本日ここに、一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これにすぎたるものはありません」 住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。ところがここまで読み上げたところで、住職の胸にググっと熱いものが突き上げてきました。 引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、 「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。意識は懸命に文字を探そうとしていました。けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまいました。ただただ目から涙がこぼれてとまらない。どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。そのとき誰かの手が、自分の背中 に触れるのを感じました。 入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。 このときのことを住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。

こうしたことは外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。外国の大使の方々は、日本に駐在していていよいよ日本を離れるときに、おいとまごいのために陛下のところにご挨拶に来る慣わしになっています。
駐日大使というと、⻑い方で6〜7年、短い方でも2〜3年の滞在ですが、帰国前に陛下にお目にかかってお 別れのご挨拶をするとき、ほとんどの駐日大使が「日本を去るに忍びない、日本には陛下がおいでになり、陛 下とお別れをすることがとても悲しい」と申されるそうです。 この言葉が儀礼的なものではないことは、その場の空気ではっきりとわかります。陛下とお話しをされながら、駐日大使のほとんどの方が、目に涙を浮かべて言葉を詰まらせるのです。特に大使夫人などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。こうしたことは、その大使が王国であろうと、共和国であろうと、共産圏の方であろうと、みな同じなのだそうです。むしろ共産圏の国々の方々のほうが、より深い惜別の情を示されるそうです。

さて、ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上しました。この奏上が終わると、何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。
「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かってい るたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」と住職に申されました。 住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままなりませんでした。
この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。 孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしません。昨日まであれ ほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っていました。
すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑み をたたえていらっしゃる。それはまるで陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられました。 そして陛下はひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」
すると陛下は、この子供らに「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。 そして、「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。
すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、 「立派にね、元気にね」とおっしゃる。
陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。 この「立派にね、元気にね」の言葉には、 「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがい ないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったこ とを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」 というお心が込められているのです。そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。
陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。 すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っていました。その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に 「大切に病を治すように希望します」と申されました。 鹿毛医師はそのお言葉に涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで⻘年のように頬を紅潮させたものでした。
こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。 この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一 点を見つめられました。
それまではどのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間ではうってかわってきびしいお顔をなされたのです。 入江侍従⻑も、田島宮内庁⻑官も、沖森知事も、県警本部⻑も、何事があったのかと顔を見合わせました。 重苦しい時間が流れました。
ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の 子に近づかれました。そしてやさしいというより静かなお声で、 「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。 一瞬、侍従⻑も、宮内庁⻑官も、何事があったのかわかりません。けれど陛下の目は、一点を見つめています。そこには、三人の女の子の真ん中の子の手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。陛下はその二つの位牌が「お父さん? お母さん?」とお尋ねになったのです。
女の子が答えました。
「はい。これは父と母の位牌です」 これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、「どこで?」とお尋ねになられました。 「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」 この子は、よどむことなく答えました。
すると陛下は「おひとりで?」とお尋ねになる。 父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。 「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが 親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」 この子がそう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。 そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。
しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は 「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんともお母さんとも、お 浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから私は淋しい ことはありません。私は仏の子供です」
こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。この子も、じっと陛下を見上げていました。 陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしました。そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。 そして陛下は、「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申されました。 そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちました。 そのときこの女の子が、小さな声で、「お父さん」と呼んだのです。 これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられました。
その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣きました。 東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。

子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになられます。山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいました。その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、 「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。 遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。 陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。たったひとりの息子でございました」 そう返事しながら、老婆は声を詰まらせました。
「うん、うん」と頷かれながら陛下は「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうで ございます。でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。せめて遺骨の一本でも帰ってくれば と思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、⻑生きしてください。ワーン・・・・」 そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。
そうなのです。この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。 そばにいた者全員がこの様子に涙しました。

遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められました。 そこには若い⻘年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていました。 実はこの人達は、シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一⻫に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。
そうした意図を知ってか知らずか、陛下はその一団の前で足をお止めになられました。そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられました。
「⻑い間、遠い外国でいろいろ苦労して、大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。みなさんは外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います」
陛下の⻑いお言葉でした。そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。 はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまいました。
「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。そして、 「天皇陛下さま。ありがとうございました。いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。引揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。生活も最低のものになった。ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは、私だけではなかった。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」 と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの⻘年が、ワーッと泣き伏したので す。
「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」 と泣きじゃくるのです。 すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この⻘年の言葉に同意して泣いている。彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられました。それは、何も言うことのない、感動と感激の場面でした。

いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下 のお洋服の端をしっかりと握り、「また来てね」と申しました。 すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると 「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。
御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれました。そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。
宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれました。

みほとけの 教へまもりて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ

お腹を空かせた者がいたら、パンを与えても、それでは一時しのぎにしかならない。 だから、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を教えるのがより良いことだという話を聞いたことがあります。
けれど日本には、それ以外の第三の道があります。 それは、互いに心を通わせ、同苦し、信じあい、励まし続けることでした。 そのことを、昭和天皇は、見事に体現してくださいました。
敗戦のショックで打ちひしがれていた人々は、この昭和天皇行幸を境に、国土と産業の復興のために全力をあげ、日本はその後わずか 15 年で東京オリンピックを開くまでに国土と産業を復興させ、そしてそこから戦後の 高度経済成⻑を果たして、世界第2位の経済大国へと発展していきました

天皇の行幸は、政治権力でしょうか。 それとも上下関係でしょうか。
パンを与えたのでしょうか。 パンを得る方法を教えたのでしょうか。
違うと思います。 それらとは明らかに一線を画する、もっとはるかに高度なものです。 これが、天皇の「しらす」です。日本古来の姿です。

「魔女のエネルギー療法講座」9日目レジュメより抜粋

民主主義とは何か?と問うた場合、ほとんどの人が国民が平等に為政者を選ぶ「総選挙」の仕組みを挙げるでしょう。しかし民主主義の理想である「自由と平等」を理論化できる人はいないと思われます。完全な「自由」と完全な「平等」は相矛盾する概念だからです。
共産主義も社会主義も民主主義も、ユダヤ人が作った人工的な思想です
「自由と平等」は民主主義を喧伝するためのお題目に過ぎず、20世紀以降「民主化」の名の下に、耳触りがいいだけの、虚しい「自由と平等」が、何度も何度も政治家や革命家の口から唱えられてきたわけです。
そして民主主義という政治思想は、既存の世俗的な王政を倒すために作られたものと言えます。「それは共産主義の間違いだろう」という人がいますが、共産主義も当時は民主的な思想と評価されていました。実のところ根は一緒なのです。

共産主義は暴力革命によって持てる者を殺してでも富を奪い、国家が一括して吸い上げた上で、全ての国民に平等に配分しようというものです。しかし蓋を開けてみれば共産党の独裁政権に過ぎず、共産党の一部のエリートが富も情報も軍部も掌握する「寡頭政治」体制でした一党独裁とは「ファシズム」のことです
民衆は生産のための道具にされ、自由を奪われました。この体制に「資本家」の姿は見えませんが、エリート支配の裏には巨大な資本が隠れています。「資本論」や「共産党宣言」を書き上げたカール・マルクスにはユダヤ系の資本家がスポンサーについていました。「暴力革命」も資金や武器を提供する者がいてはじめて起こせることを知る必要があります。

民主主義はもう少し複雑ですが、金と情報の力でその国を外部からコントロールしようという仕組みです。資本家の姿は見えていますが、通貨発行権を掌握していることはひた隠しにしています。そして金(マネー)の力を行使して情報(メディア)と知識層(大学・教授陣)をコントロールし、選挙民にはそれと分からないように裏から操作(洗脳)しています教育と情報を統制することで間接的に民衆を支配する構造は、すでに100年前に、アメリカの国家情報局にいたエドワード・バーネイズが「プロパガンダ」という著作で種明かししています。
政府を動かしているのは政治家ではなく、メディアと官僚です。メディアは選挙で選ばれた政治家を批判しますが、官僚を批判することはまずありません。巨大なインセンティブを背景にした利権構造が何重にも張り巡らされていますが、これを“メディアと官僚が結託したエリート支配”と見立てると、共産主義と同じ「寡頭政治」体制であることがわかります。

「自由」を強調すれば民主主義的になり、「平等」を強く主張すれば共産主義的になるだけのことで、「自由と平等」は“実態のない言葉遊び”に過ぎません
暴力革命ではなく、既存の文化を破壊することで共産革命を達成しようとする「文化マルクス主義」運動でも「自由と平等」を謳い文句にします。現代ではこれを「ポリコレ」「LGBTQ」という看板に付け替えているだけのことです。
そして「グローバリゼーション」は、名前を変えた「共産主義化」であり、「文化マルクス主義」運動であると理解する必要がありますこのカラクリに気がつかないと、今アメリカやG7諸国で起こっていることが分からなくります
そして要は全てが「金(マネー)の力」というわけです。

結局のところ民主主義も共産主義も社会主義も目眩しのお題目に過ぎず、お金(マネー)を持つ者が最高権力者となる「資本主義」という唯一の体制が、この200年間地球上を席巻していたと見ていいでしょう。
次の時代にはこの体制を変えなくてはいけません。
お金こそが最高の価値であり、お金を持つ者が権力を握る時代から、民衆の幸せと自己実現の自由が最高の価値となる時代への転換です。それは「資本主義」から「民本主義」への転換しかないのではないかと、日本人として思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?