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ノートを取るということ。

初めて[note]というものを投稿してみようとしている。

これが恥であるか、もしくは称賛されるべきことなのかはまだわからない。

それでも、南無阿弥陀的「まあとりあえず」の精神で始めてみようと思うので、お時間のある方はざっと目を通していただきたい。

ところで、英語でノートを取るというと、

Take notes.

という表現になる。

よくよく考えてみると、変わった表現であると思う。

ノートを「書く」でなく「する」でなく、「取る」という表現になるのは日本語も英語も同じである。

してみると、”ノート”とは、自分の中に【すでにある何か】をとっておく、という感覚なのだろうと思う。

[https://ejje.weblio.jp/content/note]

weblio辞典によると、それは「記録、覚書」というような意味になるらしい。

なるほど、と思う。

とかく人は忘れるものである。

忘却というと悲観的に捉えられがちではあるが、

よく言えば、我々は忘れる機能を持っている、と言っても良い。

この忘却という機能は、きっと進化の賜物であろうと思う。

僕たちはなんでも忘れる。

大事なことも、そうでもないものも、小さいことも、大きいことも、いずれ時間と共に忘れてゆくことができる。

僕たちが今日こうして正気でいられるのも、あるいは狂気に飲まれているのも、その半分は「忘却」のおかげであると言ってほとんど良い。

「これまでの全て」を記憶して、海底でひとりコッソリと物思いにふける貝がいたら、よだれをたらして欲しがる機能であろう。

しかしそれでも、と、僕たち人間は思う。


忘れたくない。

この、もしかしたら一瞬かもしれない感情を、想いを、

どこか忘却の手が届かない場所に保存しておきたい。

良いことも悪いこともいずれ平等に忘却の波にさらわれてしまうのだとしたら、

せめて「すき」なものくらいは、「これは」と思うものくらいは、

防波堤でいい。小舟でも、浮き輪のような頼りないものでいい、

そこに一瞬でも確かに【それは有ったのだ】と振り返って確認するくらいの時間は欲しいのだ。


そうして、僕たちは[note] を取ることにした。

煩雑な日常の中の、ほんのちいさな出来事を、忘れたくないと駄々をこねることにした。

それは例えるなら、大掛かりなオーケストラのなかに埋もれる、取るに足らない一音かもしれない。

しかし、その一音[note]こそが、たまらなく好きなのだという人もいる。

振り返ってみて、よくぞこの一音[note]をこそしたためたと思うかもしれない。

あるいは、その逆か。または、裏か。


究極的には、それらはすべてどうでも良いことなのだろう。

それでも、いや、それだからこそ、僕はnoteをとることにする。

いい大人が、駄々をこねて、忘れたくないものを記していく。

そうしていけば、もしかしたら、

「忘れたくないもの」というやつが、増えるかもしれないから。

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