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街・人を再構築する.(機器を通して)

 他者になったつもりで、他者の視点から風景を眺める。そうすると、「発見」が増える。普段通りをできるだけ避けて、旅人みたいに、常に窮屈さを感じながら行動してみる。

他の人は、私が決して思いつかないような(すごい!)方法で活動している。そして合理的な方法を編み出して、既知の門をたたき、未知の領域の方へ向かう。

 子どもの視点に立って、物事を再構築してみる。子供がどのように感じているのか、原始的な退屈な体験を思い出し、自らと一緒になる。自他は隔てずに、時に感じているだろう恐怖感を自らの内にも思い起こしてみる。

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 ところで、自らの意図を廃して他人の視点に立つと言うことは、自らの中に構築した他人を通して物事を感じると言うことであり、それでは自らの視点を捨てて、専ら他人になっているとは言えないという。(あくまでも自分の中に存在する他人の視点、つまり他人のコピー。)もう、自らもなにもない、意味を持たずに世の中を感じ続けなければいけないと思わずにはいられない。

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 他人の視点を求める理由はなんだろう。意外性だとか意図がない行為が素晴らしいというか、あとから行為の目的を付け加えていこうとする心の動きがどうも最近邪魔をする。その時々の快適さが一貫性を持たないことが気に入らない。


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