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Drawing Poetry:学習と創造のプロセスを描き出すための「制作学(poïétique)」

はじめに

わたしは、デザイナーであると同時に、制作活動を通して人がいかに学ぶかについて探究しています。人が何かを生みだすとき、どのような状況に身をおいているのだろう。学習と創造がうまく結びつくのはどんな時だろう。そもそも、学習とは? 創造とは? といった具合です。


このページでは、学習と創造のプロセスを描き出すための「制作学」として検討中の「Drawing Poetry」というアプローチについて記述します。このアプローチ自体が未熟な発達段階にありますが、ご意見やコメントなどいただけると励みになります。

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Drawing Poetry の詳細は、下記の活動実施報告書(2018)に記述しています。もしよろしければご覧ください。


ポール・ヴァレリーの「制作学(poïétique)」

このアプローチは、ポール・ヴァレリーが「制作学(poïétique)」と呼んだ概念と強く共鳴しています。最初に、塚本昌則氏の『ヴァレリーにおける詩と芸術』の序文から引用します。

作品を作ることではなく、作品を作る過程を注視して、そこで何が起こっているのかを明らかにしようとする試みを、ヴァレリーは「制作学」poïétique と呼んだ。「詩学」poétique のギリシア語語源 poiein(作る)を際立たせた造語である。「詩学」はヴァレリーによって、一篇の詩を書く規則の集成ではなく、精神がものを作ろうとするとき、そこで実行される複雑な操作を見極めようとする「制作学」となった。重要なのは、ここで言う詩が芸術のさまざまな現れに共通する、作るという行為において捉えられていることであり、この視点から、詩に関する考察をそのまま芸術全般に関する考察まで押し広げることができるということである。[塚本2018, p. 09]

そしてヴァレリー自身、彼の創作ノートともいえる『カイエ』で、次のように述べています。

わたしは決して作品を構想しない。作品はわたしにとって、本当の意味で重要ではない。わたしの興味をそそり、興奮させ、悩ますのは、作品を作る⼒である。( ポール・ヴァレリー)[塚本2018, p. 09]

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ヴァレリーは、作品を生みだす過程を注視して「作品を作る力」とは何かを追求しました。たとえば、『ムッシュー・テスト』という作品には、書くという行為について考え、作品を作る力について葛藤するなかで生み出した想像上の人物、テスト氏が登場します。

長いですが「ムッシュー・テストと劇場で」からテスト氏の言葉を引用します。まさに、自身の詩的経験をつかまえようとする心的プロセスが語られています。

ちょっと待って...... 身体が輝きだす瞬間があるのだ......じつに興味ふかい。突然、内部が見えてくる......いくつもの層をなしたわたしの肉体の深さが、はっきり見えてきて、苦痛の領域が、苦痛の環、電極、放電する火花が感じられる。そういう生きた形象、わたしの苦痛の幾何学が、あなたには見えますかな? 観念にそっくりよく似た閃光もある。そいつがわからせてくれるんですよ、ーここから、そこまで、だって...... けれど、そんなふうに閃光が走っても、このわたしは不確定なまま放っておかれる。不確定って言葉じゃあ、ぴったりしないな...... そいつが来そうになると、わたしの内部に何か錯雑としたもの、拡散したものが見つかるんですよ。わたしの存在のなかに、いくつか......ぼうっと霧のかかった場所ができてくる、いくつかの広がりがあちこちと出現してくるんです。するとわたしは、記憶のなかを探って何かある疑問、何でもいい、ある問題を見つけだす...... そこにもぐりこむ。砂粒をひとつひとつ数えて......で、砂粒が見えているかぎりは...... ー苦痛がだんだん激しくなってきて、その苦痛に注意を注がずにはいられなくなる。考えるんですよ、その苦痛を! ーあとはもう、叫び声があがるのを待つだけ、......そして、叫び声が聞こえたとたんに ー対象は、このひどい対象は、たちまち小さくなり、さらに小さくなって、わたしの内部の視界から消えてしまう...... (「ムッシュー・テストと劇場で」清水徹 訳)

ここには、詩的経験を認識し、経験を注視し、ようやく掴みかけたと思うと消え去ってしまう様子が読み取れます。詩的経験を言葉にできない感覚とも捉えられます。

上記に関連して、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが面白いことを述べています。ある事柄を定義できないからといって、それについて無知であると思い込むことは誤りだというのです。むしろ「何かについて何も知らないときのみ、その何かを定義し得る」とボルヘスはいいます。

たとえば詩の定義を試みたとします。出来上がった定義は、辞典や教科書には十分でも説得力に乏しい。もっと大事な何かがあるはずだ。このとき詩人は、この何かに励まされて「詩を書くことを試みるだけでなく、詩を享受し、詩のことなら何でも心得ているという気にもなる」というのです。

ボルヘスは、何かに言葉を与え、さも何かを言い得たかのように思い込むことが無知だと述べているのでしょう。わたしたちは、詩や音楽、社会について、本能的に何かを心得ています。心得ているからこそ、定義してもし尽くせない感覚を抱き、もっと大事な何かがあるはずだと考えるのです。

ここには、果敢に言葉で定義することで、結果的に、言葉で接近できない何かの存在を感じとるプロセスが描かれています。このプロセスが「作品を作る力」を動機づけているのかもしれません。

作品を作るという行為には、さまざまな経験が紐づいています。制作活動を通して人がいかに学ぶかについて探究するためには、制作活動における経験を注視する「制作学」の観点が必要不可欠だと考えています。

わたしは、「作品を作る力」を「学習と創造のプロセス」と言い換え、現代の認知科学や学習理論の力を借りることで、ヴァレリーの時代とは異なる観点から「制作学(poïétique)」を構築することを目指します。


学習と創造のプロセスを知る手がかり

人が何かを生みだす「学習と創造のプロセス」を理解するためには、学習と創造のプロセスを記録して、個人やアウトプットの「変化」を読み解く必要があります。

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アウトプットされた制作物の変化を時系列で眺めると、学習と創造のプロセスが見えてきます。制作物には、思考の整理に使ったメモ書きやスケッチをはじめ、アイディアをとりあえずかたちにしたドラフトや模型、自分や他者のコメントを記録した資料などを含みます。


たとえば、デザイン系の学生が制作するポートフォリオには、学習と創造のプロセスが埋め込まれています。また、科学者や作家が書き残した文書やスケッチにも、学習と創造のプロセスが刻み込まれています。絵画療法やオープンダイアローグでは、個人が社会に適応していく学習と創造のプロセスがみてとれます。ネット上のコミュニティで自然発生した協同制作では、参加者同士のやりとりがスレッドに蓄積され、学習と創造のプロセスが描き出されることもあります。

わたし自身、2018年にエコ・ファッションウィーク・オーストラリアで発表した衣服の制作過程をドキュメントしました。

このコレクションでは、北海道室蘭工業大学の平井伸治教授の研究室とコラボレーションし「ウール樹脂」を活用したデザインを展開しました。「活動実施報告書_添付資料」からいくつか抜粋します。

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また、モデルたちがわたしの作品を解釈し、モデルたちがショーを創り上げるワークショップの実践もドキュメントしています。

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よろしければ、ウェブサイトもご覧ください。


人が何かをつくりながら考えを深め、他者との相互作用のなかで個々の思い込みを相対化し乗り越えていく過程はとてもドラマチックです。

このプロセスを分析することで、学習とは何か、創造とは何か、という問いに踏み込むことができそうです。現時点では人文寄りですが、いかに学習科学や認知科学の文脈とつなげられるかが、大きな課題です。


Drawing Poetry という自己省察アプローチの提案

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 このアプローチは、心を揺さぶられた詩的経験から、自身の「知覚原理」を引き出し、自己省察を通して「芸術の修辞学」を描きだすことで、詩を自分の糧にすることを目指している。
 「Drawing」という英語には、引き出すこと、描きだすこと、という2つの側面がある。対象の目に見えない魅力を引き出し、かたちとして描きだす行為をひと言で表現している。また、詩を意味する「Poetry」の語源はギリシア語で「作ること」を意味する「Poiesis」である。詩は、まさに何かを作る力の起爆剤なのである。(「活動実施報告書」より )

活動実施報告書では、芸術教育を意識した内容になっていますが、Drawing Poetry が対象にする制作活動は、芸術に限定したものではありません。現在は、「芸術の修辞学」という記述を、単に「修辞学」とすべきだと思っています。また、「修辞学」に類する概念には、建築家のクリストファー・アレグザンダーが提唱する「パターン・ランゲージ」などが挙げられます。

Drawing Poetry は、自己と他者の認識のギャップや自己矛盾・葛藤など、身体的な経験を意識して、感情や直観に素直に向き合うことから自己省察をスタートします。そして、経験に対して適切な言葉やイメージ、かたちを与える制作活動を繰り返すなかで、個々の経験を表現するための「修辞学」を発見するプロセスに着目します。

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学習と創造が生まれる背景には、人だけでなく自然や人工物を含めた他者からの直接的・間接的な影響が必ずあると思います。個人と他者との対話的なやりとり(=相互作用)をひっくるめて捉えることが、学習や創造の仕組みを理解するためには必要だと思われます。

結局のところ、学習と創造は主観的な経験に根ざしています。主観性から目を逸らさず、個人が他者との対話的なやりとり(=相互作用)をどのように発展させていったのかを把握することが大切だと思います。

わたしが考える「制作学(poïétique)」は、Drawing Poetry を実践することで、学習と創造のドラマチックな発現を記録し、分析する学問です。


Drawing Poetry の可能性

このアプローチはヴァレリーの「制作学(poïétique)」と同様に、「制作」の概念を軸に展開しています。そのため、芸術・デザイン・科学という別枠で語られてきた領域をつなぐ認識論を発見する可能性があります。

芸術とデザインの分類に関しては、一般的に「芸術=問題提起」であり「デザイン=問題解決」であるとする議論があります。この分類はわかりやすいですが本質的な誤解を生む可能性があります。

実際のところ、デザインは問題発見(=問題提起)と問題解決がセットになった思考法です。確かに芸術とデザインでは、問題発見の方向性は異なるかもしれません。しかしながら「制作学」の観点で考えると、デザイナーも芸術家も、問題発見と問題解決のサイクルを実行しているはずです。

わたしは、学習と創造のプロセスに着目し、「人が何かを創造しようとするとき、どのような状態に身をおいているのか」という問いに向き合うことによって、たとえばデザイン思考やアート思考といった思考法を超えた、より根源的な何かを発見できるのではないかと夢想しています。

最後にもう一度、リンクを貼ります。Drawing Poetry の詳細は、下記の活動実施報告書(2018)に記述しています。もしよろしければご覧ください。



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