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バッファーと創作ーー日常のきらめきとゆらめきの(再)確認へ向けて

0.意気込み

僕は今、大学での卒業研究/卒業制作に向けて、動き始めている。そのテーマについては、いずれ別のところで書くかもしれないし、またなかなかうまく表現しづらいのだけれど、大まかに言えば、僕がやりたい(やっている)のは、「創作」をすること、またそれについて考えること、を通して、創作と創作でないもの、あるいは理論と実践、アカデミックなものとそうでないもの(公的なものと私的なもの)、といった(僕らが暗黙のうちに想定しまたそれに拘束されているのかもしれない)対立を俯瞰してみる、相対化してみることによって、より気持ちよく、あるいは楽しく、語ったり作ったり生きたりすることに近づくということだと思う。

このエッセイでは、そうして僕が色々作ったりしながらテクストを書いたりしている内に浮上してきた「バッファー」という言葉=概念において、その創作や実践との関係について、述べてみたいと思っている。

もちろんテクストを書くことも創作である。だからこそ、創作について述べるこのテクストは、その内容と、それがどのように語られるか、ということが切り離せないし、その意味で、この文章は、抽象的、概念的、哲学的なエッセイではあるものの、むしろ日常会話や、小説に接近している。だが、そのような事態は、程度の差はあれ、また制度的に覆い隠される傾向があったりするにしろ、普遍的なものではないだろうか?創作物は何より、それが創作される(された)プロセスの証言ではないだろうか?

さて、僕がいう「バッファー」は至るところに見られると思っているし、具体的な例を思いつく限りあげていきながら、文章を進めていきたいと思う。

とはいえ、抽象的でそれについて思考しづらい概念ではあること、また一般的な用法から離れた使い方をしていること、また私自身がこの概念をバッファー(間に合わせ)として使用していること、などといった理由から、分かりづらいところはあるかもしれないし、そもそも僕はこのエッセイを、一定の何かについて論理的に記述された(「公的」な)ものとして完成させることを、半ば、最初から放棄するくらいの勢いの中で書くことしかできないように思えるし、それでいいのだと思う。

(だが上に述べたような事情は、少なくとも一般的な意味において、ひとりよがりでも構わないということを意味しているわけではない。そもそも、誰も「ひとり」であることはありえない。僕らは、コラボレーションの中で作られ、また作るし、そうしてまた新たなコラボレーションへと移行する。僕が以前書いた「エラボレーションとコラボレーションーー創作における主体性、あるいは主体性の創作へ向けて」というエッセイで考えたのはそのような見方だった。そしてまた、僕は音楽を作ったり文章を書いたりしながら、そんな新たなコラボレーションへの楽しい合流を夢見ているし、誰かがそこに救いを見出すことができたのなら、それはやはり僕の喜びでもある。いやだからこそ、そのような意味において、「ひとりよがり」であるかそうでないか、ということは問題にはならないと思っている。)

僕はバッファーという概念をバッファーとして、バッファーについての文章を、次の創作へ向けたバッファーとして書く。

1.「バッファー」という語

まずバッファーという語の一般的な意味を形式的に確認しておきたい。

英語の「buffer」が語源。鉄道の車両間の衝撃を緩和する装置のことを「バッファ」といい、もともとは「緩衝器」「緩和物」を意味する。ビジネスでは「時間的なゆとり」「人間関係におけるクッション」などといった意味合いで用いられることが多い。
IT分野では、コンピューターが処理しきれないデータを一時的に保持しておくための記憶領域を指し、「緩衝記憶領域」とも呼ばれる。コンピューター内部の入出力装置や制御装置などでは、装置ごとに処理速度の差があるため、装置間でデータをやりとりするとタイムラグが生じる。そこで、処理速度や転送速度の差を緩和させ、それぞれの処理速度に合わせたデータの保管や送信を行う必要があり、バッファはその役目を果たしている。
(「バッファ | IT用語辞典 | 大塚商会」、https://www.otsuka-shokai.co.jp/words/buffer.html
、2021/10/24接続確認。)

最近は触れていないけれど、僕は以前、SuperColliderという音響合成のためのプログラミング言語を学んでいて、その時に、引用の後半の意味でのバッファーという言葉を知り、また、それは何か、僕たちが何かをする時に本質的な、いつでもそこにあるようなものに思われたし、そこから僕はこの言葉をしばしば使うようになった。

2.使用例

とりあえず、僕がこの言葉をどのように使っているのか、自分のTwitterや日記などから引用してみよう。先走って言うと、このように、「とりあえず」で、足場となるような何かを、まにあわせで、「ぽん」と置いてみること、あるいは、思考や行為の方向性が四方八方に散らないために役に立つ、「サンドバッグ」や「天井」、「壁」をつくること、これもバッファーの一つだ。

「やろうと思っていること」を念頭に置きながらそれをやらずに別の仕事を片付けたり、普段なんとなくやらないことに手を出してみたりするのも、ある種の「バッファ」だ。
つまり、それ自体は意味を持たないスペース、マージン、「足元」を確保することによって、そこから「動き回る」ことを可能にすること。

僕にとっては外国語も一種のバッファであって、一般的にも、日本語だけで行き詰まった、息が詰まった時に、カタカナ語が出現したりするのは偶然ではないと思う。
挨拶のような定型表現やエモティコンにも似たような機能があると思う。
もちろん哲学的な概念とかもね。
それから「日本的」な言葉(「いき」や「侘び寂び」)なんかも一種の外(国)語でもある。
なんらかのレイヤー、なんらかの側面において「外」であるということが重要だ。

僕らは、自分の中に湧き上がってくる何かを、いつでもうまく言葉にできるわけではない。けれども何かしらのやり方で、それを伝えたい、伝えなければ、と思う時がある。そういう時、例えば「ありがとう」という言葉は、その言葉にできなさや伝えられなさも含めた、エモーションの広がりを包み込んで、向こうに届ける。開放血管系的、放精的な言葉の使用法。冗長さと情緒...。

僕が「バッファー buffer」という外国語、カタカナ語を持ち出すのは、それ自体がバッファー的であるとも言える。

3.置いておくこと

バッファーは、使用されるまではそれとして存在しないような、それでいて、それを使っていることが意識されないことによってその機能を十全に果たすようなもの、であると言えるかもしれない。

たとえば机。僕らは作業において、いくつかのもの(道具)を使っている時、それらをいちいち片付けたりはせずに、すぐまた使う場合や、もしかすると使う場合に備えて、それらを机の上に置いておいたりする。その道具で行いたいことが一度で完了しないからこそ、それを一旦机の上に置き、その道具でできることの汲み尽くせなさ、その道具でやりたいことのやり尽くせなさを保留する。迂回する。机に、アウトソースする。

もちろん机も一つの道具であって、それは部屋というバッファーの中にあり、そしてまた部屋は廊下というバッファーをもち、それらは家というバッファーを構成する。家は道というバッファーをもち、それら「人里」は自然というバッファーをもち、またそれらが地球というバッファーを構成し、それはまたアウター・スペースというバッファーをもち...。
(重層的に折り畳まれているという意味で)フラクタル的なバッファーの空間、広がり、マージン、余地。折り畳まれていること、増殖。それは目的(地)のない保留=迂回ともいえるだろう。

あるいは、本を読んでいる時に、重要だと思ったところ、よく分からないと思ったところ、よく分からない文章の中で分かりやすい言い方をしている部分、などに線を引いたり印をつけておいたりする。その行為によって、その文章が含み持つ意味の把握(grasp)できなさ、分からなさを保留=迂回する。

あるいは、何かもやもやした時、疑問が浮かんだ時、Twitterなり、日記なり、またこうしてnoteなどに、書く。いや、書いておく。書いて、置く。書いて、置いてみる。そうすると、落ち着く。手が空く。そうすると、そこから移動して、別の見方ができたりする。
あるいは人に話してみる、人と話してみる、人の話を聞いてみる。そうして「相手」をバッファーとして使うこと。逆に、自分を相手に対するバッファーとして使うこと(としてのインタヴュー)。

おそらくバッファーは、それとして機能するために、ある程度「外」である必要がある。あるいは、ある程度無関係である必要がある。切り離されている必要がある。隙間がある必要がある例えば、僕らが会話を続けることができるのは、そこで話されている内容が、むしろ、自分の感覚や興味から多少隔たっているからではないだろうか?「暑いね」とか、どうでもいいけれども、かといって全く本心でないわけでもないことから始めていく。うまく言い表せないけども、とりあえず言ってみる。相手の言っていることの面白さが分からないけども、だからこそ力を抜いて、まあしばらく耳を傾けてみよう、と思える。

「他人事」にしてみる。いや、他人事であるかのように振る舞ってみる。あるいは、もともと他人事であったということに気づいてみる。他人事はそれが「他人事」として表れている時点ですでに半ば自分事でもある、という事実の上で。

...だからこそ、バッファーは、なんでもいいというわけではないが、かといってこれでないとダメとかそういうこともない。逆にして言えば、何かである必然性というものはないが、なんでもありうるわけではない。

例えば絵。白い紙でもいいが、白くなくてもいいし、教科書のように何か印刷されていてもいい。紙じゃなくてもいい。皮膚の上とか、壁とか、卵の殻とか。鉛筆で描いてもいいし、消しゴムで描いてもいい。コーヒーで描いてもいいし、血で描いてもいい。

では、逆に何じゃダメだろうか?そう考えてみると、身の回りのいろんなものが潜在的に絵であること、いや、「割と」「概ね」絵であること、逆に、僕らが絵だと思っているものが、「そんなに」「大して」絵でもないことに気づいたりする。絵(という理念)の厚みが、世界の薄さが、同時に現れてくる。

4.逃げ

バッファーは逃げ(道)でもある。それはいつもある。そこここにある。そのことによって逃げ道は逃げ道たりうる。部屋→廊下→家→道といった順序はない。あるいはそれは逃げ道の一つに過ぎない。部屋から「直接」道に出ることだってできる。そしてまた、その時、それらはもうすでに半ば部屋ではない、道ではない。そこにおいて、「直-接」(≒immediate)という言葉も、普通とは違った意味を帯びてくる。半ば切り離されていて、ぶつかり合い、反射しあう一方で、半ば一体(一塊)となっていて、またその一体として、別の一体と半ば切り離されて、お互いがお互いに対するバッファーとなるような、メディウムたち。

だがそれは、逆に言えば、逃げたと思ってもそこはいつもの道だった、ということがあるかもしれない、ということでもあるのだが...。

僕はこうして、くねくねと曲がり、道を分岐させ、急に脇道を直進したかと思えば、裏道を通って別のところに出現したり、道なき道に向かって叫んだりしながら書く。たどり着くべき結論、戻るべき家などない。そもそも、逃げることとは、「Xから逃げる」という様な事態を表すのではない。そのような、Xは、確固とした、アイデンティカルなやり方ではそもそも存在しないこと、あるいは、そのXがあることと逃げ道があることは同時であること、言ってみれば、Xがすでに逃げ道でもある、ということ、これらの事態に気付き、Xの見え方が変わった時点で、逃げは既に始まっていると同時に終わってもいる(もちろんそれはいうほどいつも容易であるとは限らないのではあるが…)。

だからこそ、逃げた「結果として」家に依然としている(だがそれでいい)、といった状態もありえるのではないだろうか。

5.デスクトップ

「机上の空論」という言葉がある。

僕らは、あくまで仮の、一時的な作業場としてバッファーを行使するだろう。例えば、何かを机に置くように(あるいは何かが置かれた時にそこが「机」として扱われるように)。

だが、これまで述べてきたことからも分かるように、どこまでが「机」なのか、というのは、(それが「外」であり、外であることによって機能している以上)はっきりしないし、まただからこそ、そこにおいて「仮の」とか、「一時的な」といった言葉が意味する範疇も、はっきりしない。

そしてまた、逆説的なことに、まさにそのことによって、僕らは、目の前の机が、以前からずっとそうであったような、確固とした「私の机」であると思い込んでしまう。(いや、「思い込んでしまう」という言い方は正確ではなく、「私の机」ではないかもしれない、ということに思い至らないほど、当たり前になっている、ということだ。)

そうなると、僕らはそれに縛られて、あたかもそれしかないように、そこにあるものの中で何かをしないといけないかのように、考えたり動いてしまう。そのことが僕らの苦しみの原因になっている、ということもあるのではないだろうか。

当たり前だが、このことは別に、そのように縛られてしまうこと自体がわるい、という意味ではなく、ただ、それがわるさしている、あるいはわるさする可能性は排除できないのではないか、ということ、また、だからこそ、逆にいえば、先に述べたような意味において、その苦しみから「逃げる」こと、またその結果として、「依然として縛られているが、それでいい」という状態に至ることも可能だろう、という話だ。

実際、一定の制限や縛り、有限性がもたらす創造性、ということについての証言は、いくらでも見つかるだろう。というより、もっと根本的に、僕らは常にすでに、自分の動きを有限化する周囲の様々なものーーそれがバッファーだーーによって、何かを作ることができるのだし、さらに言えば、僕ら自身が、そのようにして作られているのではないだろうか。そこにおいてバッファーは、僕らが今このように存在(存続)し、また何かをすることを可能にしているという意味で僕らとは切り離せず、だがしかしその僕らを有限化し、時に目の前に立ちはだかりさえする「もの」=障害物(object = obstacle)として表れうるという意味では、やはり「外」なのである。

そしてまた、「慣れ」とは、そのような意味において、「くっつきすぎていること」「一体になりすぎていること」なのではないだろうか。自分を蝕むような不快感や苦痛に慣れてしまうこと。ある状況が、不快であることすらも(意識的に)感じられなくなり、その「くっつきすぎているもの」が離れた時にようやく、それが不快であったことに気付く、ということは珍しいことではないだろう。いや、だがしかし、ここでいう「蝕む」や「不快」といったものですら、なんら確固としたものではないし、むしろ、先に述べたようなあり方で僕らが存在するとすれば、原理的に、僕らは常に、なんらかの形でつくられていると同時に蝕まれており、また不快ーーいやむしろ違和感、異物感?ーーをバッファー(緩衝)し続けると同時にそのことによってまた新たな違和感を創作=発見し続けるのではないだろうか。

その意味で、「新しい」もの、「創造的」な何か、例えばアヴァンギャルドな「芸術」が、そのアカデミックな領域における評価以前に否応なく放つ、直感的な次元での「変な感じ」「奇異さ」は、やはり、単に(「それっぽい」)「新しさ」を表象するパフォーマンスなどではなく、いや、むしろそういったパフォーマンスであることをも臆さないことによって、実際的な効力をもつ、「創造」となりおおせているのではないだろうか。

「机上の空論」もあるが、「嘘から出たまこと」という言葉もあるのだ...。

6.アンビエンス

僕がここまで書いたようなことを書くのには、僕がつい最近、かなり抜本的に自分の部屋を掃除・片付けしたことも関わっているのかもしれない。

僕は掃除を終えた後、「部屋の香りをよくしたい」と思って、ネットで良さそうな芳香剤を調べて、それを買ってきた。

置き始めた瞬間は、「少し香りが強いかな」と思ったが、すぐに部屋に馴染んで、とてもいい香りだなぁと思う。

ふとした瞬間に、「すぅー」っと呼吸をすると、香りがすることを感じる。「香りがするなぁ」と明確に思うわけでは必ずしもないが、そこで一旦、意識が仕切り直される。

そしてまた、香りがなくなった時に、またそのことに気がついたりする。

すなわち、「リズム」が形成される。

バッファーはリズムを形成する。

リズムは、分節的な連続、とも言えるだろうか。

トン・トン・トンと音がなる。あるいは何かが並んでいる。それらは、一方では「トン・トン・トン」として、何かの「並び」として、一つのまとまり=連続性を形成しつつも、他方では、「トン」「トン」「トン」であり、「何かの」並びであるという点において、別々であり、「外」である。

それはまさに、これまで述べてきた、バッファーと僕たちの関係に似ている。いや、リズムはいつもそこにある。

僕らは、例えば一日の終わりにその日を反省したり、月の初めに目標を立ててみたり、年末を行事にしたり、10周年を祝ったりする。あるいは、そうでなくても様々な行事や祝日があり、また四季があり、クリスマスやハロウィーンのように、形だけ普及したものもあるだろう。それらもやはり、生活にリズムを与え、生き生きさせる、あるいは、僕らを何かと何かの間で「行き来」させるのではないだろうか。

だが、バッファーの役割はむしろ、リズムというよりも、ビートや拍子、つまりは繰り返し、変わらないもの、を与えることなのかもしれない。

例えば、常にぐにゃぐにゃ動いている机、というものがあったとして、それは机として役割を果たすだろうか?

ここで重要なのは、リズムとビートを対立させたりすることではないし、机がそれ自体で、実際どれくらい変わらないものなのか考えたりすることでもない。

上の記事で、脳科学者の池谷裕二は、無音よりも、ホワイトノイズや自然音が流れている方が学習効果が上がったりすること、また単純作業においてはBGMが作業効率を上げることはあるかもしれないが、集中力を要する作業においてはむしろ逆効果になることすらあるかもしれないことを述べつつも、自らは、「仕事時間の半分くらい、音楽を流して」いると語っている。

「集中力を上げる効果はありません。
でも、集中力が切れた時に、そのまま机に座っていられるという効果はある。あと、嫌な仕事に取り掛かりやすくする効果もあると思います。」

「それで仕事に集中しはじめたら、正直言って、まったく音楽なんか聞いていません。」
「僕は、自分が集中できているかどうかを確かめるために音楽をかけている、とも言えます。」

音楽はそれが音楽である以上、変化に富んでいるだろうし、ましてや自然音など、様々な音が入り混じるカオスであるとも言える。

だが、そこで、「音楽を聴く」「音楽を流す」のではなく、「音楽として、流す」こと(「流す」の意味が前者と後者で違うことに注意されたい)。一続きの音楽であるという点においては変わらないものとして扱うこと。そこにおいて、音楽は背景音楽として現れてき、また機能するとともに、まさにそのことによって半ば消える。空気になる。そこで僕らは呼吸をする。

(メモ:そしてまた、その意味において、音楽はBGMや環境音に含まれうる、あるいはなりうるだけではなく、それ自体の内に常に「BGM」や「環境音」を含みうるとも言えるのではないだろうか。「無音」という形であっても。それに対して、DAWによる音楽制作は、「スキューバダイビング」を可能にしたのかもしれない。そこにおいては浮遊と接触が区別できず、また必要最低限であると共にそもそも過剰な呼吸が行われる。あるいはそこで僕らは、魚になり、深海生物になり、熱水噴出孔とその生物群集になるのかもしれない。「あとどれくらい僕は深く潜れるだろう」ーーサカナクション「朝の歌」。創作における「沈潜」の位置。)

ところで、こうした呼吸に対して、息を飲むこと、一気に、一息で、一足飛びに何かをすること、力むこと、いきむこと、こうしたことがもつ機能も考えられる必要があるだろう。

7.バッファーとエコノミー、バッファーのエコノミー

行き詰まった時に、そこから逃げて、また別の側面からアプローチする余地を与えてくれるのがバッファーだ。横に、横に、そのまた横に。

例えば僕は、こうしてnoteを書く。行き詰まったら、苦しくなったら、別の段落を作る。それが行き詰まったなら別の見出しを作る。それでも行き詰まったら別のnoteに移行して書く。あるいは一旦自分のメモやTwitter上でアイデアを整理してみる。あるいは、本から引用してみたりする。あるいは、そもそも書くことをやめて、別のことをやってみる。別のことをやっているうちに、また書きたくなってくるかもしれないし、いつの間にか、そんなこと忘れているかもしれない。

ところで、そうして増殖するバッファーは、どのようにマネジメントされるのだろうか。あるいは、されないのだろうか。それらは粉々に粉砕され、土となり、海へ戻り、空気になるのだろうか。

エコノミー、エコロジーの問題。この二つの言葉はどちらも、「家」を意味するギリシャ語oikosを語源に持っている。やりくりすること。やりとりすること。

僕らがそうであるように、家はバッファーを含み、またそれによってつくられ、それ自体もバッファーとして機能し、多かれ少なかれ呼吸する。逆に、僕らは家でもある。体内の細菌たち、あるいはむしろ寄生虫parasite...。

"Para"という接頭辞には、「側で」とか、「横に」とか、「傍らで」とか、「並んで」といった意味がある。

Paraphrase(言い換え)や、Paragraph(段落)、Parenthesis(括弧)あるいはParameter(媒介変数)といった言葉がこのエッセイの内容と関わるのは言うまでもない。

さて、寄生虫。寄生と共生は何が違うのだろう?

共生現象のうち利害関係が分かりやすいものにはそれを示す名が与えられている。

相利共生(そうり - ) … 双方の生物種がこの関係で利益を得る場合
片利共生(へんり - ) … 片方のみが利益を得る場合
片害共生(へんがい - ) … 片方のみが害を被る場合
寄生(きせい) … 片方のみが利益を得、相手方が害を被る場合
しかし、これら相互の間には明確な境界はなく、同じ生物の組み合わせでも時間的に利害関係が変化したり、環境要因の影響を受けて関係が変わったりすることもある。また、同一の現象であっても着目する時間や空間のスケールによって害とも益とも見なされる場合がある。共生は利害関係によって単純に分類できるものではない。

相利共生だけが共生ではない。利害関係は可変的であったり観察困難だったりするため、利害関係は考慮せず、複数種の生物が相互関係を持ちつつ同所的に生活している状態をすべて共生と呼ぶ。
(「Wikipedia - 共生」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%9F
、2021/11/14接続確認。)

...ということだそうだ。「共生は利害関係によって単純に分類できるものではない。」これに関しては、今まで述べてきたことを考えれば、あまり驚きはないだろう。バッファーは僕らをつくると同時に蝕み、そこに何かが逃げ込んだりするような孔や道(あるいは泡?)を常に含んでいる。いつでも、となりにはトトロがいるのと同じくして、カオナシも、となりにいるーーただしそれをそれとして認識できる距離感や配置において。

さて、ここから、共生の様々な様態や、エコノミー・エコロジーについて語ることもできるかもしれないが、同じような話題が増えてきた気がする。いや、それは必ずしもわるいことではなく、そういった繰り返しの中で、書いている人も、読んでいる人も、一緒に変化していくのだけど、それにしても、それこそ、僕はある同じ話題に接近しすぎている。

それに、そうしたことについて語るとなると、具体的にならざるを得ないし、それには、このエッセイで駆動しているのとは別の慎重さや大胆さ、速度が必要となるだろう。

とはいえ、僕は現実離れしたことを書いているつもりはない。実際、僕はいつでも、自分が言っていることについての例をあげることができるし、そうしてきたつもりだ。いや、むしろ、それらは、少しだけ現実から離れているからこそ、あるいは現実にたいして「外」であるからこそ、それに光を照射することができる、といってもいいだろう(もちろん、その「現実」はやはり確固としたものではなく、だからこそ、このような意味で、理想(非現実)/現実、理論/実践、抽象/具体といった区分も相対的なものなのではないだろうか)。

ところで、エコノミー・エコロジーに関して一つだけ。

葛飾北斎が生涯に何十回(93回)も引っ越しをしたことはよく知られているが、彼が引っ越しをやめたのは、93回目の引っ越し先が、以前自分が住んでいた、散らかったままの部屋だったからだという。

バッファーが逃げることを許容している内は問題ないだろう。横へ、横へ、移っていくにしたがって、自己のあり方や意味や価値のあり方も変わっていき、違う場所に行くのだから、日本のマナーが他の国のそれとは違うように、今問題であることも、移った先では問題ではない、ということは十分ありえる。

だが、そうして増殖したバッファーが、「運」悪く、増殖したまま、まとわりつき、やがて動きを堰き止めアイデンティティを固定するようになり、逃げることをほとんど不可能にする、という可能性があるのではないだろうか。

「付けが回る」こと。

僕らは、そんな可能性を予期しなければならないのだろうか?予期して動かないといけないのだろうか?「目の前のこと」にだけ取り組むのは悪だろうか?いや、その「目の前のこと」にこそ、広がりや伸縮性、またその限界があるということを考慮すべきなのではあろうが…。

こういった問題は、極めて「現実的」な問題だ。あなたの住居がゴミで溢れてはいないのだとすれば、それは多くの場合、そのゴミが別のところへと運搬されるからだろう。あるいは、そもそもゴミが出ないように外部で加工された「製品」を手に入れるからだろう。それらの「ゴミ」は、僕を構成するバッファー、僕を囲い込むバッファー、またそれらによって構成された「僕ら」、つまりは「内」と不可分なものとしての「外」の、そのさらに外、相対的に絶対的な外(あるいはむしろ絶対的な内でもいいのだが)へと運ばれ、見えなくなる。関係なくなる。保留、先送り、たらい回し。

8.癖、パルクール、言葉

おそらくここまで読んでくれた人は、僕の言葉の使い方の癖に気がつくかもしれない。そもそも「癖」というものが、一種の「逃げ」であろう。なんとなしにスマホを触る。顎に触る。髪を触る。指で机をドラムする...。

動物行動学に、「転位行動」(Displacement Activity)という言葉があるそうだ。

 転位行動【てんいこうどう】
動物行動学用語。逃走と接近といった相反する衝動が拮抗して葛藤状態に陥ったときに現れる行動。闘争中の鳥が突然地面をつついたり,求愛中のイトヨが急に逆立ちして水送り動作をしたりすること。人間が困ったときに頭をかくのも一種の転位行動と解釈できる。同じような状況で異なった対象に行動を行うこと,例えば,優位個体に攻撃されて,他の弱い個体を攻撃する場合は,転嫁行動と呼んで区別される。
(「転位行動とは - コトバンク」
 https://kotobank.jp/word/%E8%BB%A2%E4%BD%8D%E8%A1%8C%E5%8B%95-854160
、2021/10/30閲覧。)

転位行動(てんいこうどう)とは、動物が攻撃か逃避の選択といった葛藤状況に置かれた時に解発される、全く別の第三の行動のことである。
ネコが不安を悟られないためとか、失敗した時の照れ隠しに頭をかくとか、本心を知られないようにグルーミングでカムフラージュをするのも転位行動である。
人間がよくする「やけ食い」も転位行動である。
(「転位行動 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E4%BD%8D%E8%A1%8C%E5%8B%95
、2021/10/30閲覧。)

さらに因みに、であるが、パルクールと呼ばれるスポーツ(実践)があるが、それは"the art of displacement"という別名を持っている。移動の、転位の、置き換えの技術=アート。
(↓見たことがない方はぜひYouTubeなどで見てみてほしい。)

日本パルクール協会のサイトには、このように書かれている。

「パルクールが包括しているフィールドは非常に幅広く、スポーツ(運動方法)という言葉だけで表現できるものではありません。」

「パルクールの実践者の多くは、パルクールにおける移動の動作の練習を通じて己の機能性、体力、バランス、空間認識力、敏捷性、コーディネーション能力、正確さ、コントロール、創造的視点などを鍛えていきます。」

「パルクールとは、己の限界を理解した上で、それらの限界を克服するという性質が非常に強いスポーツ(運動方法)です。」

「己の限界」を理解すること。それは、自らや自らの動きをつくるとともにそれを制限し障害ともなるバッファーを、それとして見つめ、「そこにある」ものにし、そこから身を引き剥がし、牽制し、距離感を保つことによって、別の側面からアプローチすることを可能にする、という「逃げ」のこととも言えるのではないだろうか。そしてまた、そこには独特の快やスリルと共に、もちろん危険もあるだろう。

さて、(癖の話に戻ると)僕はよく、「あるいは」「また」といった言葉や、「いや、」といった言葉を使うと思う。「あるいは」や「また」は、単なる"or"ではなく、可能性の広がりを示す。「いや」は、可能性を閉ざさない態度、今夢中になっている考え方から一度身を引き剥がす態度を示す(ぺこぱ...)。あるいは、「〜は間違って"は"いない。だが〜」といったりする時の「は」は、留保をつける。

ここには、「論理的非論理」とでも呼べる事態がある。

「AならばB」は、論理的には必ずしも「BならばA」であることを意味するわけではないが、でももしかするとやはり「BならばA」が成り立つかもしれない、という可能性の広がり。

そこには、論理的な必然性が保証されない中で、それでもあたかもそうなることが必然であったかのように繋がりが成立すること、またその奇跡性、というものも存在しうるだろう。例えば、冒頭で述べたように、「ありがとう」という言葉が時にもつ、きらめき、ゆらめき。

おそらく、その「奇跡」が起こるためには、ある種の勢いや大胆さ、また集中や正確さが必要となるだろう。これについては後で述べることにするが、例えば、「ありがとう」という言葉が重みをもつのは、むしろそれが思いがけない時に、発していいのだろうか、という時に、思い切って発された時であり、またそれでいて、例えば初対面の人にいきなり「ありがとう」というのは、不正確であり、「場-違い」「間-違い」ではないだろうか。

ただ、それにしても、僕はあまりにも広がりを作り過ぎているのかもしれない。「あるいは」、「いや、」といった言葉によって広がりを生み出すのと同じように、あえてそれを言わないことによって、を、隙間を作ることも、同じ効果を生むのではないか?「隙がある」ということは、もちろん、批判の「余地」があるということでもあるし、それによって、(未来の自分も含めた)他の人が入り込み、修正し、遊ぶことのできる、公園がつくられるのではないか?そこには、都市においては特に貴重な、開放された「何もない」と、無骨なオブジェクトがあるだろう...(そのどちらもバッファーだ)。

そしてまた、広げすぎることは、そのことによって、隙間を埋め合わせてしまう、あるいはむしろ、全てを拡散させ、隙しかないようにしてしまうのではないだろうか(だがそんな砂漠と、その夜空を満たし、もはや星座を作ることすら許さない星々の美しさにも抗い難い魅力があるのではないだろうか)。

埋め合わせてしまう危険。中毒の危険。例えば流行語。流行語は、挨拶や(「ありがとう」のような)定型表現、エモティコンと同じように、広がりをもち(あるいは広がりであり)、エモーションを包み込んで送るだろう。「まじ卍」、「エモい」。

それはどれも最初は、創造的な逃げとして発明されたのだろう。だが、それは、そのゆるさ故に、「うまく言葉にできない」という不能感、無能感からくる不快感を安直に埋め合わせるために、流し込まれることをも許容してしまう。もともと広がりをもつはずのものが、あまりに多くを引き受け、その重みによって、「不能」という一点に収束し、私をそこに引きずりこむブラックホールと化す。

そうなると、それがさらに道を塞ぎ、印刷のように余白を塗りつぶし、余計に窮地に追い込まれる、ということにもなりかねないのではないだろうか。無論、これは流行語に限った話ではない。僕らはしばしば、「極論」に陥る。

いや、それはまた、言葉に限った話でも、もちろんない。様々な中毒があり、依存がある。例えば僕は音楽を作るから、諸々の紋切り型、定型に走ってしまうことに敏感になる。

おそらく、「走ってしまうこと」と、「辿り着くこと」は違う。ある「定型」とされているものがあって、それを知らないわけではないが、かといってそれを使おうとも思っていなかったのに、ひたすら作っている内に、それに「結果として」辿り着く、ということがある。色んな言葉を考えてみたけれど、最終的にしっくりきたのは単純な言葉だった、ということがある。

それに対して、「走ってしまうこと」は、不安や焦りからくる、その走る先にある目的地が確固としたものとしてあるという妄信と、そこからくる無遠慮さや恐れのなさによって成り立つのではないだろうか。あるいは逆に、目星(大体の目的地)すら思いつかず、「走ることしかできない」という形で、「走ること」自体を絶対化し、目的化してしまう、という場合もあるだろう(さらには、「走ること」すら相対化され、「最初から走ることに思い至りすらしない」「最初から諦めている」=停止、ということも起こりうるだろう。)

9.勢いと正確さ、自由と雑さ

(後書きを除いてこの節で最後にしたい。未完成度が高いかもしれない。)

例えば、絵を描いていて、ある場所を塗りつぶしたい時に、その周りにマスキング・テープなどを貼って、そのテープにも塗ってしまうような大胆さで、筆を使う、ということがあるだろう。ここには、ある種の「勢い」が認められる。と同時に、その「準備」の段階では、丁寧に、正確にテープを貼っている。

あるいは、直線を引いたり、正円を描いたりする時、僕らは、すーっと、勢いでそれをするのではないだろうか。それでいて、実際に描く前に、位置や大きさなどをしっかり確認もする。

だが僕がここで考えたいのは、そのようなタイプの「勢いと正確さ」ではないかもしれない。上にあげたような例においては、最初から目的が決まっていて、その目的を達成することに、勢いや正確さが奉仕しているように思える。それは、検索的ともいえるかもしれない。

それに対して、可能性を広げ、結果的に何か知らないものに出会うような、そんな過程において表れてくる、言ってみれば「探索的」な、正確さや勢い、というものがあるのではないか。

もちろんこれはあくまで形式的、方法的な対立であるが、前者は技術的、後者は魔術的、とも言えるかもしれない。

何かが上手い人の動作には、迷いというものが感じられない。そして軽い身のこなし、流れるような身のこなしがある。余裕がある。マジシャンのように。道具を使う場合(というかそれしかないかもしれないが)、あたかもその道具がないかのように動いて見えると同時に、むしろその道具に動かされているかのようにも見えてくる(例えば言葉も道具だ。あるいはダンスの場合は身体が道具となり、動かしているのか、動いてしまっているのか、という状態に入る)。それは魅力的であると同時に、不気味でもあり、時に不快ですらあるだろう。エイリアンのように感じられたりもするだろう。

ところで、楽器を練習する人は、しばしば、「脱力」の重要性を耳にするのではないだろうか。僕は昔、キーボードを教わっていた先生に、「鍵盤の上に手を落としてごらん」的なことを言われたことがある(これが難しいのだ。特に実際に演奏するときには)。

脱力。家は落ち着く。自分の部屋は落ち着く。
それなのに、他人が落ち着くその他人の部屋で、僕は落ち着かなくなる。それは「同じ」場所であるにも関わらず。

あるいは人前で演奏したりする時、緊張する。

脱力の機能、緊張の機能。

受験の時に、「苦手意識」という言葉をよく聞いた。実際、僕は古文への苦手意識があった。やる能力や知識があるかどうか以前に、「引いてしまっている」という状態。

恐れがないこと。知らないものを目の前にして、引くのか、惹かれるのか、そのどちらでもないのか。カオナシに誘惑されるのか、それを恐れるのか、あるいはそれを傍らに受け入れるのか。どうしたらトトロに出会い、空を舞えるのだろう?テラー、ホラーとエロス、ポルノ、そしてそのあいだ、の問題。そこにおける日常と幻想の直-接、マジカルでミラクルな(非)現実…。

例えば、英語を見るだけで不安を覚える人は、(これは実体験なのだけど、)海外で活躍する日本の野球選手が、インタヴューに、決して上手とは言えない英語で勢いよく答えて客を沸かせているのを見ることによって、英語に対して新たなイメージを獲得し、あるいは英語を、「コミュニケーションをとること」というより広い観点から俯瞰することによって、不安を緩衝できるかもしれない。難しく考えすぎていたことに気がつくかもしれない。

あるいは、この動画の30:44からしばらくの間の部分も、ぜひ見てみてほしい。

この部分でギタリストのJulian Lageは、ギターにおける動きを、ギターがない時の動きと比較することで、それを相対化し、ギターから逃げ、それを半ば「外」にすることによって、大きな動きや複雑な動きへの恐怖をなくし、勢いや身軽さを獲得しつつも、(だが雑なわけではないという意味において)ある種の正確さをも獲得している。

そもそも、(Julian Lageはジャズ・ギタリストとして知られているが、)例えばジャズにおける「即興(インプロヴィゼーション)」とそれによって産み出されるものの特異性は、ある種の創作において「勢い」がもつ本質的な役割、というものを示してはいないだろうか(そしてどんな創作もそれが行われる時においては多かれ少なかれ即興的ではないだろうか)。

結局、勢いとは何なのだろう。


...この問題、またこの節で話題になったことに関して書くのは、僕にはまだ少し早かったかもしれない。というよりも、僕は多くを書こうとしすぎているだろう。すでに「バッファー」という概念において語るべき範囲を越え出ている。

だが、そうした反省については後書きに回すことにして、ひとまず、現段階で念頭に置いていることをざっと書き記しておこう。

勢いというのは、考える暇がないこと、思い-切ること、とも言えるかもしれない。そしてまた、勢いというのは、生まれるというよりも、常にすでにそこにあるものであり、そうした「風」や「波」を聴き、それに応答する準備が、構えができている、という状態において、それは表れるのかもしれない。風とは、それ自体は見えないが、それによって感じられたことや、それによって動かされたものによって、存在が確認されるような、まさに魔法のようなものだ。(「風が吹けば桶屋が儲かる」にしても、「ブラジルの一匹の蝶のはばたきがテキサスで竜巻を起こすか?」という印象的な喚起で知られる「バタフライ・エフェクト」にしても、それが「風」と関連づけられているのは偶然でもないのかもしれない。)

もちろん、ここには両義性があるだろう。無思考に走ってしまうことと、結果的に思考が必要とならず、邪魔でしかない状態に至ることは区別される必要があるし、後者の場合においても、それがディストピア的なニュアンスを帯びてもいることに注意せねばならない。

ところで、僕がここまで述べてきたことは、どちらかというと、何かをする、という行動やプロセス、ダイナミクスに関することが多かったようにも思えるが、そのようなダイナミクスの中で、「作品」、またその「完成」はどのような位置を持つのだろうか、という問いが残る。

これは一つの考えだが、「完成」は、時に曖昧で、ややもすれば不可能にさえ思えるが、いやだからこそ、「一区切り」として、引き続く創作の役に立つ、リズムの形成において、機能を果たすのではないだろうか。

とはいえ、様々なタイプの「完成」があるだろう。プロセスの加速によって、プールにおける「洗濯機」(流れるプール)のように、あるいは台風や竜巻のように、自律性を獲得し、手に負えなくなる、手を離れる、そうして、完成するというよりも、完成と言わざるをえなくなる、というパターン。

あるいはむしろ、自らが作り出した障害物や、動きすぎによる消耗からくる減速によって、身動きが取れなくなり、停止=完成に至らざるをえなくなる場合。

それから、「完成」を宣言すること自体がその作品の一部をなしている場合。


どんな作品にもそれ特有の雑さがあるのではないか。どんな作品も、それが通過したプロセスの痕跡を刻印されているのではないか。僕は、以前別の文章を書いた時に、メーキング性/メイド性というものを考えていた。ある作品が、いかにも「作られた感」「作った感」を感じさせる場合と、あたかも最初からそうあったように感じられる場合。「雑さ」とは、「隙」のことであり、風通しのことでもあるだろう。

そうした「隙」は、論理的非論理の空間において、風を吹かせ、思いがけない現れや、思いがけない出会い、思いがけない移動、つまりは魔法を、奇跡をもたらすだろう。(けれど(単に形式的に目的的・論理的な手段としての)「技術」は魔術に変装=パロディし、私たちを寝取って、それなしには満足できなくなるような不満=中毒を植え付けるだろう。楽器の演奏などにおいて、「あいつは技術だけだ」などといった批判が生まれるのは、それがいつも適切なタイミングであるかはさておき、故なきことではないのではないだろうか。)

もちろんそれは一種の理想、ロマン、両義的でなおかつ近似的・間接的にしか観測できないイデア、つまりは(まさに)非-現実であって、実際風は寒くて鬱陶しいし、「隙」は、例えば食べたものが肺に入ってしまう「誤嚥」のような、エラー、破局への可能性へもいつでも開かれているのだが。

後書き

この文章を書いている内にも、時間が経っていて、自分とそれを取り巻く環境も刻一刻と変化していくし、少し書いては、その内容が自分にとって「過去のもの」になっていくのを感じながら、また修正を加え、言葉を付け足して行ったので、逆にバランスや勢いが失われてしまったかもしれない。また、何より、書いていることと、その書き方の不可分さを覆い隠さないように、言ってみれば、「うまく書くこと」ーー例えば、文と文が緊密に、また論理的に結びつき構成されていたり、あるいはテクストから引用し、それを読み解きながら文章に有機的に組み込んでいったりするようなやり方ーーを目指さずに、この文章は、まさに「随想」的に、あるいは幼児がバブリングするように書かれたわけであるが、それが、この文章でいうところの「逃げ」として行われたというよりは、「走ってしまうこと」(この言い方はあまり気に入っていないが)であった可能性も、なかなか否定し難いところはある。

バッファーとは要するに、(ドゥルーズ的な意味での)「差異」と、そこから導き出される様々なプラグマティックな概念ーー「リトルネロ」や「領土」、あるいは「機械」等々ーーのことではないか。あるいは広義の「メディア」あるいはメディウム、媒体・媒介、中間、環境のことではないか。デリダの「代補」やスティグレールの「補綴」「技術」にも通ずるところがあるかもしれない…などといったことも書いている時に考えていたし、それについてはこれから必要に応じて展開する必要があるだろう。

…とはいえ、ひとまず書いておかなければならないのは、このエッセイではインターネット上ですぐに閲覧できるテクストを除いては引用などを直接はしなかったものの、様々なテクストに変わるがわる伴走されることなしに、書くことは無論困難だった、ということだ。まずジル・ドゥルーズのテクスト。それから彼との共著も含めたフェリックス・ガタリのテクスト。彼らからの影響は大きいし、だからこそむしろ、絶えず、彼らのリズムに意図せず引き込まれないように、同期されないように、自分の歩速を保つことによって、距離をとることを心がけもした。(だから、例えば、僕がいう「逃げ」は、それがどんなに彼らがいう「逃走」と似ているとしても、そこから取ってきたわけではなく、ある程度別の経路で辿り着いたものであり、その被り、同期は、その意味で偶然的、外在的なものであるし、かといって、僕はその言葉のオリジナリティを殊更強調しないし、する必要もないし、なんなら、こういった非同期的同期こそ、「奇跡」なのだと思う。同期とは、必然的に同期しないこと、も含むし、逆に非同期とは、偶然的に同期してしまうこと、も含むのだ…。)

さて、概念としての「エコノミー」はジョルジュ・バタイユから、「アンビエンス」はティモシー・モートンから、パルクールへの着目はミゲル・シカールから、「障害物」のアイデアはヴィレム・フルッサーから...など、必ずしも元のテクストに忠実、誠実なあり方ではないが、他にも様々な影響がある。

とはいえ、このエッセイで僕は、いかにも難しそうな言葉や、哲学的な用語を使うというよりも、あまりにも日常的であったり、なんの重みも感じられなかったり、軽薄なイデオロギーに浸されているように思えたりする言葉たちに、新たな響きを与えるということを、それを完全に目的としているわけではないとはいえ、結果的に行ってきているのではないかと思うし、文体も、結論へ向けて論理的に積み重ねていくというよりも、僕らの普段の生活やそこにおける会話がそうであるように、多方向に揺れるようなやり方をとってみているといえる。それは、最小の投資で最大の利益を得ようとするような、流れの整序としてのエコノミー、またエコノミー主義に対する抵抗でもあると思う。抵抗、というのは、反感からくるようなそれではない。それは、バッファーが立て(stand)られるやり方の一つである。Consist, assist, resist, persist...。

それでいて、僕がここでやろうとしたことが、バッファーというメタ的な概念を用いることによって、創作や生き方をめぐって日々言われる様々なこと(言説)を整理しようとすることだと考えるのなら、それはまさしくエコノミー的、あるいはマネジメント的な欲望に駆られていると言わざるを得ないのだろう。だが、ある中心的なエコノミーに抵抗するために、別のエコノミーを脇に作るということが全く状況に変化を与えないということもないのではないだろうか。

それから、「内でもあり外でもある」とか、「内と外が混ざりあっている」とか、「〇〇と××のあいだ」、「半ば」といった表現が、必ずしも思考不足や、思考の無能さ、思考の放棄を示しているわけではなく、むしろ、そのような意味での「思考」はあくまで、ロゴス(=論理、言語)的なものであり、それらの表現はそのロゴス的な思考を成立させている、より「深い」レベルーードゥルーズ的にいえば、差異が差異を含み、また差異に含まれる「差異的=微分的」なレベルーーにおける思考を促し、またそこから新たな方向を見出し、場合によっては魔法的としかいいようがない状況に至ることができるような、可能性・潜在性を確保しているのではないか、ということを、このエッセイを書くことを通して、自分なりに納得できたことは大きいと思っている。

そういった表現は、決して事態やその把握を、うやむやにしたり、全てを相対化してしまうわけではなく、むしろ、(「何気ない」と言われたりするような意味での)「日常」の中で、いつもそこにある本質的な曖昧さが曖昧にされることによって確固とした実体性を獲得しているものにおいて、バッファーを設営し、その場その場の主観/客観を立ち上げていくことで、その曖昧さがどのように曖昧であるかを、確固としたやり方で把握する、という理論=実践への開かれを告知しているのではないだろうか。また、そこにおいて僕らは、そんな曖昧な、きらめきゆらめく「日常」を確認し、見直し、生き直すことができるのではないか。

こうして考え直してみれば、僕がここでやろうとしたことは、何より、諸々の理由によって、ここで組み立てたような論理(的非論理)を組み立てることができなかった、またこのように文章を書くことのできなかった過去の「僕」、そして至る所、至る時に見出されるその亡霊に応答し、またそれを弔うことだったのではないかとも思うのだ。

2021/12/27追記

↑こちらの短いエッセイは、(結果的に)この文章の続編、追記的な役割を果たすように思われたので、参考にしてもらえたら嬉しい。

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