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エラボレーションとコラボレーション ――創作における主体性、あるいは主体性の創作へ向けて


 この文章は、現代において、積極的に「努力すること」、「いいものをつくりあげること」はどのようになされ、またどのような意味をもちうるだろうか、という疑問・関心のもとで書かれている、とひとまず言うことができる。私自身は音楽制作や、プログラミングを使った作品の制作をしており、また大学生になってから、文化的・人文学的な知に関心をもち、色んなテクストを読みながら創作について日々様々なことを思索しており、またその中で、創作の難しさや、大量の情報が溢れかえる現代の情報化社会における、創作に対するやるせなさ、のようなものを感じてもいる。このことと、この文章の内容は全く無関係であるわけではもちろんない。だが、私が「エラボレーション」とよぶことになる、積極的に「頑張ること」、「いいものをつくりあげること」、これについての思考は、いわゆる日常的な意味での「創作」に限らず、日々の生活や人間関係、あるいは政治から環境問題にいたるまで、様々な次元における「行為」「実践」をどのようにうまくやっていくか、という一般的かつ普遍的な問題と繋がるものであると思っている。
 何かの偶然でこの文章と遭遇した人が、この文章のどこかから何かのヒントやきっかけを得られたのなら嬉しい。

・「迂回」について

 ルービック・キューブはただガチャガチャ動かしているだけでは揃わない。1面揃えるだけだったら、ただその位置に「持ってくる」だけなので、ほとんど頭を使わないし、特別なメソッドも必要ないし、なんなら半ば偶然に揃うかもしれない。だが、2面、3面と揃えなければならない面が増え、一つの変更がいくつもの面へと(考慮しなければならない)影響を与える状況では、それらの面の状態を一つの方向へと収束させていくのは至難の技となる。ところで、完成したルービック・キューブを動かす(崩す)ところを想像してみれば分かるように、ルービック・キューブは全面揃う直前においては、必然的に2面揃っている状態であり、またルービック・キューブの「完成」は、2面から6面への飛躍によって為される。だがすでに明白なようにその飛躍は、単に繋げたり組み合わせたり並べ替えたりするような、単純で直線的でダイレクトな操作によっては達成され得ず、むしろ、あらかじめ措定された「完成形」から逆算して、様々な迂回を経る必要がある。ここでいう「迂回」とは、「近づくための遠ざかり」あるいは、「構築のための破壊」とも言えるかもしれないが、この「遠ざかり」はまた、その内にまた別の迂回を含みうるような、フラクタル的な入れ子構造をも持っている。

・「不定形の完成形」ということ

 ここまでルービック・キューブについて考えてきたが、私はルービック・キューブのプロではないし、そもそも家にルービック・キューブがあるわけでもない。私は普段音楽を作ったりプログラミングをしたりしているが、私が分かりやすい例としてのルービック・キューブについて考えることで本当に考えたかったのは、そのような「創作」「創造」や、その過程についてである。(これについては後に触れるが先に断っておくと、この文章においては、この「創作」の概念は、広く制作、行動、問題解決、生成なども含めた曖昧な意味で使っていることに注意されたい。)
 ルービック・キューブのようなパズルの場合、それには決まった「完成形」(完成イメージ)があり、その方向へと向かって(もちろん迂回しながらではあるが)安心して進むことができる。だが、例えば音楽を作ったりする場合において、そのような「完成形」は、そもそも完全には想定し得ない。というのも、仮に完全に想定できているとして、その場合にはその音楽はある意味ではすでに「完成」しているからだ。創作過程においては、「完成形」それ自体も創作され、また形を変えながら動いており、また今作っている「それ」と、その「完成形」のイメージが重なった時、それは本当に「完成」するのかもしれない(そのような完成が本当に達成しうるのかは分からないし、またそのような完成に必ずしも価値があるとは、もちろん言い切れないだろう。「迂回」が手段ではなく目的そのものである可能性。あるいは「迂回」としての私たちの生?)。

・エラボレーション(elaboration)という概念について

 そのような、不定形の完成形へと向けた、直線的ではない、迂回的な運動、またその結果として生み出されるもの。私はそのような意味での、「頑張ること」、「凝っていること」、すなわち「エラボレーション」ということについて考えてみたいのである。それは、単なる「複雑」とか「単純」といったようなこととは違う平面にある。時に、複雑に見えるものがある意味では単純であったり(単純な複雑さ)、あるいは単純に見えても、複雑な何かを内包しているものがあったりする(複雑な単純さ)(前者はたとえばジャスパー・ジョーンズの絵画、後者はたとえばパウル・クレーの絵画が当てはまるかもしれない)。あるいは、それは「メタ的な複雑さ」とも言えるかもしれない。
 ここで、「なぜエラボレーションについて考えたいのか?エラボレーションのどこがどのような点で重要なのか?」という疑問については、一旦保留=迂回させてほしい。

・三つの「方向性」

 エラボレーションには、少なくとも三つの重要な「方向性」があるように思われる。まずは、ある「完成形」へと向かう方向性(=意志としての方向性)。次に、その「ある完成形へと向かう」という目的(方向性)をどのように達成しようとするかということの方向性(=手段の方向性)。そして、その完成形自体がどのように変化するか、ということの方向性(=目的の方向性)。
 もう一度ルービック・キューブを例にしながら考えてみよう。3つ目の「目的の方向性」は、ルービック・キューブの場合は「6面揃える」という形で固定されているが、先に述べた音楽制作の場合のように、これが動く可能性もあり、またその動き方にも、単純なものから複雑なものまで様々である。
 2つ目の「手段の方向性」は、ルービック・キューブの場合は、基本的に先程述べた「迂回」を何重にもする必要があるという点で、複雑であるが、例えばルービック・キューブの表面のシールを剥がして貼り替えるなり、一個一個のキューブに分解して構築し直すなり、かなり単純で直線的なやり方も可能である(ただしこの場合には根本的な「破壊」が行われていることには注意せねばならない)。複雑な(入り組んだ)迂回は、ある方向へと単純に(ダイレクトに)向かうことを阻むルールや障害物によって要請されたものである、ということも多々ある。ここでは触れるだけに留めるが、このような迂回は、ゲームや、広く「遊び」一般、ひいては生きることについて考える上で重要な要素であるように思われる。
 そして、最初に挙げた「意志としての方向性」は、ルービック・キューブにおいては、「ルービック・キューブを完成させたい!」あるいは「ルービック・キューブを完成させなければならない......。」など、積極的にせよ消極的にせよ、その「完成」を見据えて手を動かそうとする、そもそもの意志のことである。「そもそも」というのは、多かれ少なかれこの方向性がないと、他の二つの方向性も表れない、あるいは意味を為さないのではないか、という意味においてである。(だが次に見るように、これは「意志としての方向性」の、他の二つの方向性に対する優位性、特権性などを意味するわけではない。これについては最後の「さらなる追記」も参照されたい。)

・流動的なレイヤーとしての諸方向性が孕む問題

 以上に述べたように、(広い意味での「創作」における)意志、手段、目的にはそれぞれの方向性があり、また特に後者二つには単純なものと複雑なものがあると考えられるのだが、ここで重要なのは、これらの方向性は基本的には、もちろん別レイヤーに属しているのだが、その一方で、そのどれもが「方向性」であるという点においては、完全には分離することはできないのではないか、ということである。少し抽象的な言い方になってしまったが、もっと単純に言い換えるのなら、これらの方向性は相互に影響を及ぼしあいうるし、またその意味でどれがメインでどれがサブであるとか、そのような言い方が必ずしもできるわけではない、ということである。完成形をどれくらい変化させるか(目的の方向性)、またその完成形へとどれくらい迂回して進むか(手段の方向性)という、この二つの方向性の複雑さの度合いの(仮)決定は、(ルールや障害、あるいは身体や能力や資産の限界といった諸々の有限性以前に、)その方向性のレイヤー同士の弁別可能性への配慮という(ある種の倫理的な?)問題を孕んでいるのではないだろうか。手段がいつの間にか自己目的化するような事態や、あまりに頻度が高かったり程度が大きかったりする目的の変更がそもそもの意志を削いでしまうような事態を考えてみるのなら、これは非常にありふれた、普遍的な問題である。そして、先に括弧の中で「ある種の倫理的な」と示唆したのは、「自分の意志を削いだり失ったりするような方向性へと自分を持っていこうとするのはどうなのか?」という形での、自分への倫理感、という意味においてである。
ところで、読者は「なぜ、『意志や手段や目的が相互作用する』という、言ってみれば『当たり前』のことを方向性やレイヤーという概念を用いて記述するのか?」と思われるかもしれないが、私はここで、「わざわざ」方向性やレイヤーという概念を持ち出し、意志・手段・目的といった要素を統合してみるという、まさに「迂回」を踏むことでしか記述できないことを言おうとしてみているのである。ある「完成形」を想定することなく(もちろんそんなことが完全にできるかは分からないが)、ここまで述べてきた創造に関する理論(というほどのものではまだないが)を先行させるような形で、「あえて破壊して(遠くへ行って)みて、その破壊によってしか可能にならないものの方向性へ進んでみる」という態度が、何か創造的なものを生んだり、思いもよらぬ「意志」を芽生えさせたりする可能性、というものがあるのではないだろうか。諸方向性の弁別が自明ではない、それらは混ざりあってしまうかもしれない、というこの問題、危機は、(全ての危機がそうであるように)同時に可能性でもあるのだ。

・エラボレーションとコラボレーション、主体性と創作

 ところで、上に述べてきたように、エラボレーションは、一定にしろ不定にしろ、あるいくつかの方向性が念頭に置かれ、またそれらがある程度弁別可能な状態に留まるようにマネジメントされることによってうまく達成されえると考えられるのだが、その意味でエラボレーションは、(しばしば「能力」や「才能」と名指されるような)個人的、閉鎖的な営みでありがちなのではないだろうか。だが、現実的・一般的に言っても、また理念的・理論的に言っても、一人の人間や、その人間のエラボレーションは決して一人で成立するものではなく、それは世界や社会における、様々な他者(人間に限らず、さまざまな生物や機械、事物、あるいは「私」という他者)との関わりの中で初めて成立するものであり、本質的に集団的・複数的=コラボレーション的なものである、とも言えるのではないだろうか。ここにおいて、エラボレーションとコラボレーションの関係性についての思考が要請されてくる。エラボレーションは常に/既にコラボレーションの上で成り立っているが、そのコラボレーションをいかに(うまく、有機的に)為すか、ということの思考/試行/指向は、すでにエラボレーションの次元に突入している。
 そしてまたここに来て、私がここまで曖昧にしてきた「創作」の概念や、あるいは「なぜエラボレーションについて考えたいのか?なぜエラボレーションが重要なのか?」ということが少しづつ明らかになってきたのではないだろうか。「創作」とは、今までにも示唆したように、単に何か作品を作ったりすることだけではなく、日常生活をいかにうまく生きていくか、様々な他者との関係をいかに織りなしていくか、ある集団の中でいかに主体性を創発させていくのか、はたまたいかにこの地球の環境を保っていくのかといった、生における様々な次元における問題と関わっているのである。そしてエラボレーション(とコラボレーション)は、その「創作」とその主体、またその関係性について思考する上で重要な意味を持つように思われる。私たちの行為や生、あるいは広く「主体性」が、ポストモダン的な情報環境=アーキテクチャの内での虚しいゲームのように感じられてしまうような現代において、積極的に努力することや、「いいもの」を作り上げようとすることの意味を問い直し、また取り戻すことには、それ自体意味があるのではないだろうか。もちろん、それは単なる退行としてではなく、情報技術が本格的に日常生活に浸透し始めているこの現実との関係性において為されるとともに、その現実を転倒・撹乱させるようなやり方で為される必要があるだろう。

・完成形を描き続けるための素描(の終わり)

 こうして、ルービック・キューブについての思考はかなり大きな問題へとつながり、様々な方向性へと動き回った末に、私の意志の方向性もだいぶ溶けてしまったように思われるのでこの辺りで一度切り上げ、また方向性を見直したいのであるが、その前に書き残したことをいくつか記しておきたい。
 今回この文章で素描した「エラボレーションとコラボレーション」というテーマは、とてもアクチュアルな問題であり、私たちはこれについての、具体的、日常的、現実的な理論、あるいはそのような個別的な理論を構築する際において普遍的な事態をより明確に描き出さなければならないだろう。これに関しては、私は現在、エコロジーやエコノミー、またプラグマティズムといった思想を見直し、連関させることを考えている。そもそも、今回この文章は引用などがないものとなっているが、実際にはもちろんここで考えられていることは私が今まで読んできた様々なテクストによって支えられているし、またむしろそこでこそ効果的に表現されているので、次回はもっとうまく、コラボレーティブに書いてみたいと思っている。
 また、本論では「創作」をはじめとして、曖昧なままにされたままの概念や思考が多々ある。もちろん、本論の内容から言っても、今述べた私の関心から考えても、必ずしも何かをできるだけ明確化することが正しく、良いことであるとは限らないであろうが、それにしても検討できていないように自分自身思うところがあるので、それについてもこれからトライしていきたい。
 例えば、今「トライ」と言ってみたが、また今回しばしば「完成形」ということについて述べてきたわけだが、全てのエラボレーションは基本的に「何かをうまく為そうとすること、有機的に組織しようと試みること」と表現できるような「試行」、「試作」(の過程)であり、何をもって、どこを指して「完成された」と言うのか、ということに関してはさらなる検討が必要であるように思われる。これは、この文章においては意図的に無視してきた「時間性」の観点を導入することを意味する。この点に関して現在私が関心を持っているのは、創作物における「メイド性」「メーキング性」とでもいうべき性質についてである。(ある作品が、もとから完成されたものとしてあったように感じられることが「メイド性」、ある作品が、それが作られた過程それ自体をも表すように感じられることが「メーキング性」である。)またこれと関連して、現代における「クリエーション」と「レクリエーション」(の対立?)についても考えてみる価値があるように思われる。

・さらなる追記、あるいはエッセイ

 「三つの方向性」について、誤解がありそうに思われたので、「方向性の生成」ということについて少し補足したい。私が「三つの方向性」として挙げた意志、目的、手段といった言葉は、あくまで読者が理解しやすいように、また実用性・実効性を考慮して用いた半ば便宜的なものであり、実際には、文章中でもほのめかしたように、これらの方向性はあくまで遡行的に「そういうもの」として、すなわち意志や目的、手段として意味や価値が与えられ、見出されるに過ぎない、と考えることもできるし、この意識は重要であるように思われる。この点に関して、私は先に「方向性同士の弁別可能性への配慮というある種の倫理的問題」ということに触れたが、これは見方によっては「保守的」な考え方であり、むしろ、私(たち)の行動や衝動、感情や欲望がもつ方向性にすでに与えられた意志や目的、手段といった意味を融解させ、もはや以前意識していた方向性が意味をなさなくなるような新たな方向性=主体性の秩序を生み出す、そして生み出し続けることこそが創造的なのだ、という「積極的」な考え方もあり得るだろう。だが、方向性を「保守的」に操作していくにしても、そこで方向性のミクロな組み換えが絶えず起こること、またその積み重ねがいずれ構造レベルのマクロな変化をもたらすということは十分にあり得るし、逆に方向性を「積極的」に組み換えていくにしても、むしろその積極性自体が流動的な方向性の一つであるのだし、また、足場や羅針盤となるような方向性が一時的、部分的にであれ生成・屹立することなしには、動くことはできない、あるいは動いているということが文字通り意味をなさない状態に陥ってしまう以上、ここにおいて保守的(消極的?)であることと、積極的(急進的?)であることは、それ自体交じり合う可能性がある二つの方向性のレイヤーであるということは忘れてはならないだろう。
 この文章では、いかに様々な方向性に意味を与え、またそれらをマネジメントしていくかということについてはあまり具体的なことを述べなかったが、それは今述べたような形で、人によって方向性に対する態度(これもまた一つの方向性である)が様々でありうるし、またそれは意図の有無に関わらず変化しうるであろうから、というのが一つの大きな理由である。それでも、今回この文章で「方向性」という概念に様々なやり方で注意を促せたことは、意味があることだと思っている。なぜなら、何かを自覚すること、何かに注意を向けることは、スタティック(静的)な事態ではなく、それ自体「方向性の変化」という、一つのダイナミック(動的)な行為=実行だと、私は考えているからである。

コラボレーションに関しては、この文章を書いている途中の段階まではむしろエラボレーションと対立するような概念として捉えていた(「いいアーティスト同士がコラボしたら、コラボすること自体が自己目的化してあんま面白くなかった」というような事態を想定してもらえれば良い)こともあり、副次的に触れるような形でしか言及できなかったのも反省点である。コラボレーションの問題は、より抽象化するのなら「複数性」の問題とも言えるだろう。複数の主体、複数の方向性......。

 ところで、冒頭で例として挙げたルービック・キューブには、一定の解法=メソッドがあり、それを習得すれば基本的に誰でも、どんな状態からでも6面揃えることができるが、このこと(メソッドの存在)は、「伝統」「ならわし」「しきたり」「いいつたえ」といったものの重要性にもつながっているのかもしれない。そのような「伝統」的なものは、往々にして不可解であり、また不毛なルールのようにも思われがちだが、その一方で伝統的なものには、不思議な力や良さ(いわゆる「職人技」のようなものを想起してもらえればよい)があるというのも、多くの人が感じるところではないだろうか。伝統的なものには、人間には知覚できず、意識にのぼらない様々なミクロな方向性の機微が、歴史的に繰り返し集約される中で、人間が意識することができる方向性=「メソッド」(あるいは道しるべ?)として洗練されたものである、というような側面があるのかもしれない。(そしてまた、言葉や概念もこの意味で、「伝統的なもの」であるのだろう。)

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