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【書評3】 マックス・ウェーバー 『職業としての学問』

 大学を出ても研究を続けたいので、研究者になるのもいいなと考えている。学問の世界で生きていくのは厳しいという話も聞くが、バンドマンがメジャーデビューして生きていくのは厳しいと言われるのと同じだと思う。今私がいる大学はメジャーデビューして活躍しているスターがたくさんいて、この方のようになりたいという先生もいれば到底この方には追いつけないという先生もいる。だが、そんな先生方の近くで正しく進めばメジャーデビューもできるしスターにもなれるという気がする。

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 そんなことを考えていたところだったので、ウェーバーの『職業としての学問』を手にとった。ウェーバーは19世紀末から第一次世界大戦真っ只中の時代に生きた人物で、経済学及び社会学の世界ではマルクス主義を反証する中でこれらの学問の発展に貢献した知的巨人である。

 私の恩師は学問についてウェーバーの考えを引き、次のようなことを述べている。「ウェーバーは、ザイン(存在・事実)とゾルレン(こうであるべきだという道筋)を区別することが大切だとした上で、学問はザインを追い求めるべきものだとしたが、社会が変化する局面にあっては、あるべき社会の姿を構想すること、すなわちゾルレンを語ることも求められるのではないか。」と。

 私なりに『職業としての学問』を読んだ上で恩師の言葉を解釈すれば、ウェーバーの言葉と恩師の言葉は全く矛盾するものではない。ウェーバーは学者の中に学問を探求する学者的立場と、政治や社会に影響を与える指導的立場の二つの立場を想定している。学者としての立場にある時、彼の職業倫理は、仕事に、そして事実解明に専心することこそが規範だという。そして指導者の立場にある時、彼に言わせれば「街頭に出て、公衆に説け。」という。(M・ウェーバー, 1936, p.50)

学問の職分とは…最も簡潔な答えは…トルストイによって与えられている。かれはいう、「それは無意味な存在である、なぜならそれは我々にとって最も大切な問題、すなわち我々はなにをなすべきか、いかに我々は生きるべきか、に対して何事をも答えないからである。」(M・ウェーバー, 1936, p.42)

 彼は学問の限界を彼自身が知っているが故にそのような職業倫理を持っているのだと思う。また、学問が前提とする学問それ自体の意義についてもそれを突き崩せという。

一般に学問的研究はさらにこういうことをも前提する。それから出てくる結果がなにか「知るに値する」という意味で重要な事柄である、という前提がそれである。…一般に自然科学は、もし人生を技術的に支配したいと思うならば我々はどうすべきであるか、という問いに対しては我々に答えてくれる。しかし、そもそもそれが技術的に支配されるべきかどうか、またそのことを我々が欲するかどうか、ということ、さらにまたそうすることが何か特別の意義をもつかどうかということ、-こうしたことについて何らの解決をも与えず、あるいはむしろこれをその当然の前提とするのである。(M・ウェーバー, 1936, p.45)

 ウェーバーはこのような理由から、学問にゾルレンを語ることはできないというのであるが、それは学者としての立場にあるときにそうであるのであって、ある人がゾルレンを語ってはいけないということではない。私の恩師が「ゾルレンを語ることも求められるのではないか。」と述べたのは、学者としてではなく、自己の中に2つの側面を持てということなのだと思う。つまり、大学で学問を探求する以上「ザイン」を追い求める、すなわち事実解明に徹する態度を持つべきである一方で、社会人として「ゾルレン」を語れ、すなわち社会のあるべき姿を語れということなのだ。

 また、ウェーバーが本書の中で意図したのは、職業としての学者の限界を規定するということでは決してない。教師として与えられるものではないが学問が与えられるものの限界、それは究極的には、各人の立場=根本態度に対して内的整合性を与えるということである。ウェーバーは次の比喩を用いてこれを説明する。

もし君たちがこれこれの立場を取るべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。なぜなら、君たちが自己に忠実である限り、君たちは意味上必然的にこれこれの究極の結果に到達するからである。…本質上哲学的な諸々の原理的研究は、皆この仕事を目指している。…そして…各人に対してかれ自身の行為の究極の意味について自ら責任を負うことを強いることができる(M・ウェーバー, 1936, pp.63-64)

 ここでもウェーバーはゾルレンを語ることを否定していない。むしろ学問はゾルレンを語る上で各人に内的整合性と責任を与え、そしてそれこそが究極的な学問の目的であるとしているのである。けだし、『職業としての学問』が意図したのは、学問に本質的回帰しろということではないだろうか。すなわち、職業として学問を行うものは、知的廉直であれ、指導者たるべくして指導者たるなということである。最後にウェーバーの言葉を引用して終わる。

学問に生きるものは、一人自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここに後々まで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度と味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。…いやしくも人間として自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。(M・ウェーバー, 1936, pp.22-23)

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