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わからないということをわかること

「わからなさをわかりあおう」という展示テーマに、まったくわけのわからない展示があって、「さあ!どう感じようがあなた次第です!」といったザ・現代アートのようなものをはじめは想像していた。

実際には、大きなテーマとして掲げられていたのは「翻訳」だった。
日常的に触れる翻訳は、英語→日本語といったような言葉間の変換だが、この展示では言葉→イラストとか、映像→触覚とか、料理→料理とか…色々なものの「翻訳」をどう行っていくか?という内容であり、多様的な解法が示されていた。

特に興味を惹かれたのが、永田康祐さんの「Translation Zone」。
テーマとして「料理から翻訳を考える」と掲げられていて、分子調理の話をしながらローストしないローストビーフを作ったり、Google翻訳の話をしながら炒飯を作ったり…といった映像作品で、ぼんやりと認識していたようなしていなかったような知識を料理を通して言語化する、という面白い作品だった。
この作品、またどこかで展示されたら見に行きたいなあ。

「わかりあえない」について考える様になったのは社会人になってからだ。
学校が上がるごとにコミュニティの選択の余地が広がり、自分にとって寛容な世界になっていく気がした。しかし、そこでも思い返せば前提は「お互いが同じ状況・文脈に身を置くという暗黙の了解」があったように思う。
この前提はわかって当然でしょ?みたいな。(中学生時代はそれがわからなかったから特に辛かったんだ。)
高校、大学と進むにつれ、大まかには同じ方向を目指す人たちの集まりになっていき、文脈が擦り合っていく感覚は素直に楽しかった。

「わからないということをわかる」を認識したのは、とあるミャンマー人エンジニアと一緒に働くようになってからだ。
まず母国語が違う。なんと向こうはトリリンガルで、かつ日本語でコミュニケーションをとってくれるという本当にすごい人だった。
お互いにこの単語は何を指すのか?と思ったり、あとは彼の数字の発音が良すぎて私が聞き取れないとかも…。
そして企画側の人間(私)と開発側の人間(相手)である。同一のものを見る時の切り口が違うのだ。
例えばあるサービスを開発しようとしたとき、私は「どうすればユーザーが使いやすいか?スムーズに操作できるか?」を考える一方で、彼は「どうすればコード的にきれいに、機能に矛盾なく作れるか?」と考える。ざっくり「良くしよう!」と同じ目的を持っているようで内実はそれぞれが違う方向を目指しているため、よくよく話してみると、同じ機能に対する解釈に齟齬が出てくるのだ。

「わからない」の解決方法は地道だ。
1つは「わからない」をひたすら因数分解すること。
細かいレイヤーで認識のすり合わせをすれば、その集合体である大きい概念は自然と認識が一致する。
1つは共通言語を増やすこと。双方の使う単語の示す内容を揃えるのだ。
開発者が使う言葉を勉強したり、最終的には資格をとったりもした。(まあその最中で自分の進みたい方向とかを考えるようになり転職したのだが)
他にも意味が広い言葉を互いに擦り合わせたりもした。「展示会の中で開催される講師が話をする会」は一律で「セミナー」ね、とか(結構セッションやらトラックやら講演やら、いろんな言い方があるのだ。)

件のエンジニアとは早めの段階で「私たちが双方に理解するには言葉を尽くすことが必要だ」と一緒に認識することができたおかげで、徒な衝突を避け、プロダクトの品質もあがった、と思う。
あと、営業とか他の部門の人とのコミュニケーションも取りやすくなった。

コミュニケーション能力って、「ウェーイ」と盛り上げられる能力だとずっと思っていたけど、それだけじゃないんだなと最近は考えを改めた。
また、人や物と対峙するとき、何がわからないかを理解する、というのは結構大きな一歩なんだなと。

そんなことをつらつら考えながら展示を見ていたり。


Nukabotがひたすらかわいい!ほしい!売ってない!!!



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