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感情の中で泳ぎながら、女性が働くという事。ー「サプリ」おかざき真里著を一気読みしてみたー

Twitterのタイムラインに流れてきたこのツィートをきっかけに、サプリを一気読みしてしまった。

前回の全裸監督一気観の際もそうだけど、なぜわたしは、ちょこちょこ観るのではなく、夜中に一気に観るのか…四十路の体力をだいぶん過信しているなと思うが、性分らしい仕方ない。

しかし、体力を吸い取られたとしても、感情のサプリメント的なものになったのは間違いない。

物語の中に、何人もの登場人物が出てくるが、誰一人完璧な人はいない。
みんなどこか未完成で、どこか歪な部分を持っている。それがこの作品の魅力の一つだ。

(1夜で全巻制覇するには、そこそこの気合がいる事は先に記しておく)

序盤、1番完璧だと思われていた「田中ミズホ」というわたしと同じ名前の彼女に至っては、コミカルにどんどんクレイジーさを増していく。
同じ名前という事もあり、彼女の動向が終始気になって仕方なかった。

軸となるのは、働く女性の哀歌とでもいうのか、心模様が主軸となる。

20代後半から30代前半の、わたしも通ってきた曲がり角の話だ。

結婚、出産を経て、子どもの大病を経験し、また仕事をしだした身からすると、なんだかかなり遠い記憶な気がするが、首がもげるくらいに「そうやな。そうそう」と感じる部分が満載で、気付けば夜中に一人で泣いていた。

一気読みの引き金になったのは、20代後半の主人公からみた先輩社員の平野さんの見え方だ。

わたしは広告プランナーになりたくて27歳で上京した。
だけども、憧れの世界なはずなのに見えた景色が「サプリ」に描かれている絵と重なった。

わたしの40代はこうなるのだろうか…
こうなる為に、働く意味ってなんなんだろうか。

27歳のわたしは、働く意味や生き方に立ち止まった。

このインタビューでも触れたが、「30歳までにやりたい事をやる。」そう確信を持って生きようと思ったのも、ちょうどこの頃だ。

わたしがそんなことを思った約15年ほど前の肌感覚から、今の日本の働く女性の状況はそう進歩していない気がする。

実際わたしは、キャリアストップしてからどこかの企業に働こうとしても現実的ではなかった。
大阪のチベットのような最寄り駅までバスで30分もかかるようなところで暮らしていることも、その大きな要因の一つではあるけれど
子どもを育てながら、往復3時間かけて働きに出たところで、デメリットの方が多いのだ。
そのデメリットに関しては、「ない。ない。ない。」のほぼマイナスな言語になり、書くほうも読む方も疲弊すると推察されるので割愛する。

だけど、3時間あれば何ができる?
子どもたちに食事を作り食べさせ片付けるのには十分な時間だし、映画も見ることができるし、何より彼らの成長を見ることができる。
そうすると、わたしがご機嫌になる。
わたしがご機嫌になると、子どもたちもご機嫌になる。
旦那はどうか知らないけどw
多分、不機嫌なわたしの仏頂面に怯える事はないので、みんながそれなりにご機嫌になるのではないかと推察される。

27歳のわたしには「自分をご機嫌にさせることが幸福への近道」だという発想はなく、ただひたすらに「どうしたら幸せになれるんだろう」
と自問自答しながらその解決策の一つが仕事なんだと必死に働いていた。

ご機嫌に生きていくには、いろんな要素が必要で、結構それには凸凹もあって、良いことも悪いこともあるけど、それに自分が丸を出せるかどうかなんじゃないかなと思う。

ぼんやりとそんなことに気づいたのは、
「人間はな、孤独なんや。そやけど、孤独とうまいことやっていくのが、多分大人になるってことなんや」
末期がんで4年前に亡くなった父の言葉だ。
中学の時に蒸発して好き勝手やって散々わたしの人生に影響を及ぼした割に、なぜか憎めない彼は時折哲学的な名言を発していた。
彼の生前に繰り広げた様々なドラマの話は、長すぎるので割愛するが、この言葉の威力は今も尚、ボディーブローのように効いている。

そうなんだ。「サプリ」にも描かれている、色とりどりの「さみしさ」や「つらさ」は、自分の孤独とうまく付き合えないが故のものなのだ。
そこがまた人間味というところなのだけれど。
働く女性には、特にこの「さみしさ」との折り合い問題がずっと付き纏う。
さらには、その寂しさ問題への見通しとなる「結婚」「出産」を経ると、また違う課題が立ち塞がるのだ。

この国における女性の働き方というか、女性が働くことによるいろいろな葛藤に関する理解は、10年いやもっと長い時間、ほぼフリーズしている。
それは、地方になればなるほどに如実になり、東京=日本とするならば、地方はもうほぼ外国ちゃうか?というレベルで格差がある。

今わたしは、この文章を3人の陽気な小学生が任天堂スイッチの奪い合いをしている横で書いている。
平日15時以降は、ほぼ似たような環境でわたしのやっている「チャーミングケア」関連のあれやこれやをこなしている。

想像して欲しい。仕事をしている最中に、
横で「音読聞いて」と言って関西弁の音読を披露されたり、「俺が先にやるって言ってるのに、ゲームの順番譲ってくれない」と半ベソかかれたり、「ヒツジやんなぁーヒツジやんなぁーヒツジやんなぁーーあーあーあー」と完全に空耳のアナと雪の女王2の主題歌を大合唱されたりすることを。
まともに仕事脳が回転するはずがない。
さらに家事という、時給のつかない作業もこなしながらタスクをこなしていくのだ。

まぁまぁのハイパースキルがないと成り立たない。
そして、その環境でも「あなたのやっている事は必要な事だよ。」とそれを支援してくれる人の存在がないと、わたしの働き方は絶対に成り立たない。

わたしはこの環境で仕事ができているのは、かなりの奇跡とそれなりの努力があっての話だ。
そしてわたしのやっている仕事の内容が「ソーシャルビジネス」という社会課題を解決するものに属している事もかなり大きな要素だ。

何かを失わなきゃ何かを得られないような、そんな世界観はおかしい。
たかが仕事じゃないか。人生の一つの要素だ。
それをご機嫌に継続していく、言葉にするとそうむつかしくないような事が、この国では非常にむつかしい。

ただでさえそんな環境で、自分が病気をしたり、家族が病気をしたり・・・のっぴきならない状況が上乗せされたら、
どんなに優秀な女性であったとしても、心がぽきっと折れてしまう。
それはきっと、女性だけでなく男性も然りだが。

「サプリ」でも描かれていたけれど、女性はとりわけ感情の中で泳いでいるので物事をロジカルに割り切れないのだ。

長々と書いてしまったが、今日もうちの小さい人々は、「まーちゃん、またパソコンをカタカタなんかやってるなぁ〜」と、
ちょっとだけわたしに気を使いながら土曜の午後を過ごしてくれている

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