見出し画像

【コラム】📰AI生成ニュースは許容できるか?──米有力誌掲載で揺らぐ「活字の倫理」🥎元朝日新聞記者 飯竹恒一 (2023/12/22) 🌸古巣の職場での苦き経験/沢木耕太郎さんの格闘/村上春樹さんの対抗意識🔥【語学屋の暦】【時事通信社Janet掲載】

【写真説明】米誌「スポーツ・イラストレイテッド」に掲載された後、削除されたページ。米メディア「フューチャリズム」によれば、記者とされる人物の写真は人工知能(AI)で生成されたもので、実際には存在しないという。(フューチャリズムのサイトより)

この記事は下記の時事通信社Janet(一般非公開のニュースサイト)に2023年12月22日に掲載された記事を転載するものです。

 
時代はここまで行き進んだのかと唸(うな)らされた。人工知能(AI)が世を席捲(せっけん)し、真偽が疑わしい情報が蔓延(まんえん)する昨今、事実関係という報道の根幹の最後の砦の一角だったはずの有力メディアが、AIで生成した記事を虚偽の記者名で掲載した疑いが浮上したのだ。

米誌「スポーツ・イラストレイテッド」(SI)。1954年創刊で、スポーツニュースに「文学的創造性」(literary creativity)を加味し、ストーリー仕立ての格調高い読み物に押し上げたといわれる。その表紙に写真が掲載されることはスポーツ選手として極めて名誉なこととされ、日本球界から米メジャーリーグに挑んだ野茂英雄、イチロー、大谷翔平らが登場した。最近では、大谷の移籍問題を取り上げる日本メディアのスポーツ報道を注意深く見ていると、SI誌の情報の引用も目につく。

その名門メディアの疑惑を11月末に報じたのは米メディア「フューチャリズム」で、SI誌のオンライン版以外では見つからない記者名が、AIで生成されたとみられる顔写真付きで掲載されていたという。フューチャリズムによると、この写真がAIで生成された顔写真の取引サイトで売り出されているのが見つかった。

さらに、フューチャリズムは「どれだけ否定されても、コンテンツは紛れもなくAI生成だ」(The content is absolutely AI-generated … no matter how much they say that it's not.")という関係者の話も報じた。一連の記事や写真はすでに削除されている。

問題の記者の名はドリュー・オルティス(Drew Ortiz)で、担当は商品紹介だったようだ。「ドリューは人生の多くをアウトドアで過ごし、皆様が自然の危険にさられないよう、尽きることのない最高の製品のリストをご案内できることを楽しみにしている」(Drew has spent much of his life outdoors, and is excited to guide you through his never-ending list of the best products to keep you from falling to the perils of nature.)などと、もっともらしい人物紹介が掲載されていた。

フューチャリズムは、こうしたAI生成の文章の特徴として、「異星人が書いたかのように響くことが多い」(often sounds like it was written by an alien)と指摘し、この記者名の記事について、バレーボールを「・・・始めるのはいささか難しいかもしれない。特に練習用の実際のボールがないと」(… can be a little tricky to get into, especially without an actual ball to practice with)という奇妙なくだりがあったことを事例として紹介している。

SI誌の発行元であるアリーナ・グループによると、アドヴォン・コマースという別の会社がこうした商品紹介のコンテンツを提供し、この会社は、記事は人の手によって書かれたと説明したという。声明ではさらに、「アドヴォンが著者のプライバシーを保護するために、特定の記事について、ライターにペンネームまたは偽名を使用させていたことが判明した。これは容認できない行為で、こうしたコンテンツを削除する一方で内部調査を続け、その後、パートナーシップを終了した」(… we have learned that AdVon had writers use a pen or pseudo name in certain articles to protect author privacy - actions we don't condone - and we are removing the content while our internal investigation continues and have since ended the partnership.)と述べた。

この問題を後追いした米CNNによると、この問題を受けたタイミングで同グループは最高経営責任者(CEO)を解任した。CNNに対して「事業運営と、ビジネス全体を改善する方法について幅広い視点から取り組んでいるだけだ」(the company just takes a broad view of operations and how to improve the business overall.)などと説明し、フューチャリズムの報道との関連については言及を避けたという。

実存しない記者名でAI生成の記事を生成した疑惑が、逆に深まった印象だ。

***

「AIがジャーナリズムに紛れ込む現象」 (AI's creep into journalism)。そんなキーフレーズを掲げ、米公共ラジオ放送NPRの番組がこの問題を取り上げたのは興味深かった。フューチャリズムの記事を書いた女性記者や、かつてSI誌に20年在籍したという男性記者がゲストとして登場した。

私が注目したのは、ジャーナリズムにとって、AIを必ずしも悪と決めつけていなかったことだ。番組のアンカー役は今回の問題について、「自分たちの将来を見据え、SI誌でどの程度まで人を機械に置き換えられるかについて、試験的な気球になるのではないかと思っているに違いない」(… they must be definitely looking towards their future and wondering if this was a trial balloon about how many humans can be replaced at SI by a machine.)と指摘した。

フューチャリズムの女性記者もAIを巡る取り組みは多くあるとしたが、「記事を掲載するのにフェイクの人間がいるという疑惑は、極めて新しく、衝撃的な指摘だった」(… the allegation of fake people to publish it under, that was a very new and striking claim.)とも述べた。AIを使ったコンテンツであることを説明した上で読み手の判断を仰ぐならまだしも、あたかも生身の人間が記事を手掛けたと偽り続けることの愚かさを強調したいのだろう。

元SI誌の男性記者は、今は米紙ニューヨーク・タイムズ傘下のスポーツ報道サイト「ジ・アスレチック」で活動しているが、そこではジャーナリズムを守る気概が変わらずにあふれ、あるべき姿からはずれないように守るガードレール(guardrails)が健在だという。かつては、SI誌でも「あらゆる記事について、ジャーナリズムを強く意識していた。編集は複数の段階に及び、記事ごとに事実確認担当者が割り当てられていた…」(People really cared about the journalism of every story. There were multiple levels of edits. Every story was assigned a fact checker ...)と振り返った。当時はAI生成の記事が掲載される余地など、全くなかったということだろう。

この男性記者が離れた後のSI誌は、スタッフの4割が解雇されたり、複数回にわたって身売りされたりしたという。今後の懸念として、男性記者は「中小規模の町で記者に年間5万ドル、6万ドル支払って高校スポーツを取材するのか、それともこの種のテクノロジーを使うかの選択」(a choice between paying a reporter $50,000, $60,000 a year in a small, midsize town to cover high school sports, versus this kind of technology)に迫られる時代であることを強調した。

フューチャリズムの女性記者も「… 過去1年間に目にしたほとんどすべてのAIの取り組みは、解雇と結び付いている」(… almost every AI effort that we've seen in the past year has been coupled with layoffs.)と話した。要は、人員削減の手立てとしてAIが導入されつつあるという指摘だ。現場の記者の悲鳴が聞こえてきそうだ。

***

ところで、裏付けのないフェイクニュースは今に始まったことではなく、テレビのやらせも含めしばしば指摘されてきたことだ。その最たるものの事例として思い出すのは、古巣の新聞社の長野時代の2005年、私の職場で起きたいわゆる「虚偽メモ事件」だ。

総選挙での新党づくりに向け、当時の亀井静香元自民党政調会長と田中康夫長野県知事が意見を交わしたとされる会談について、確認するよう取材を指示された長野総局記者が、実際には知事に直接取材できていなかったのに、「長野県内で会談した」などとするメモを作った。メモは東京の政治部にメール送信され、それに基づく記事が複数掲載された。田中知事の指摘で発覚したもので、この記者は懲戒解雇、東京本社編集局長ら社の幹部が処分された。当時の私の直属の上司の総局長は政治部出身でこの一件に直接関わっていたことから、更迭された。

「虚偽メモ事件」を受け、朝日新聞社は検証結果を公表した

この処分に至る過程で、総局内外で徹底的な調査がなされ、その結果は紙面化された。その中で私がリアルに感じるのは、懲戒解雇になった記者はメモを作った当日、泊まり勤務だったことだ。夕方5時に着席して他の記者の記事も含めて校閲作業をする役目があるため、知事と直接話ができないまま途中で取材を切り上げ、職場に戻ってしまったのだ。かつては専門の部署が担当した校閲作業を泊まり勤務の際に担当するというのは、人員削減の一例にほかならない。

もちろん、そうした背景説明がどれだけなされようとも、超えてはならない一線を越えてしまったことは間違いない。共に汗を流した後輩記者だっただけに胸は痛んだが、犯してしまった罪は余りに重かったと言わざるを得ない。

虚偽メモ事件は極端な例だが、そもそも事実を伝えるための活字には、根源的に危うさが伴うと言ってよいだろう。その点を一線のノンフィクション作家として突き詰めたのが沢木耕太郎さんだ。エッセイ集「路上の視野」(文藝春秋)で「三人称による叙述、それも神の視点から書く手法を用いると、取材源が叙述の中で全部塗りつぶされてしまい、取材された結果だけが羅列されていく」と指摘した上で、「書く当人にすごく厳しい倫理観がないと、歯止めのない泥沼のような偽造が出てきてしまう」と書き綴(つづ)っている。

その点、代表作の一つ「一瞬の夏」(新潮社)は、「路上の視野」によれば、「私が見たものしか書かない方針を徹底化した」作品だ。「私」である沢木さんが、プロボクサーのカシアス内藤のカムバックに深く関わり、実際に立ち会って見聞きしたシーンで書き切ったものだ。この「私ノンフィクション」という手法に20代の頃に私は初めて触れ、その徹底ぶりに度肝を抜かれたのを覚えている。路上の視野にこんなくだりがある。

「・・・少なくとも私には、これを書き通すことで見えてきたものがある。それはフィクションとノンフィクションとの間にある薄い皮膜の存在だ。何を書くかではなく、いかに書くかということで内と外に分離していく、その境界にある薄い皮膜。私は決してそれを破りはしなかったが、確かにそれが手に触れる瞬間はあった」

何と正直で、誠実な姿勢だろう。活字は事実関係を一つ一つ押さえて確定しながら、いわば歴史を刻んでいく作業だ。今回のAIの一件を持ち出すまでもなく、そもそも綱渡りの連続なのだ。

***

私のささやかな記者時代を振り返ってみると、最初は手書き原稿とポケベルの時代だった。手書きはすぐにワープロに切り替わったが、データベースはまだなく、職場に残されたボロボロのスクラップ帳だけが頼りだった。必要なら初任地の岡山から大阪本社に出向き、専門部署できちんと整理された過去記事をコピーする必要があった。やがて、肩からぶら下げる大型の携帯電話が職場に数台導入され、それも次第に小型化されて各個人が持つことができるようになった。1998年の長野五輪の時はフィルム写真だったが、それもデジカメに取って代わられ、今ではちょっとした取材なら、スマホの写真でも十分だろう。

何より、そうした過程でパソコンが導入され、社内データベースはもちろん、取材先の公式サイトをはじめ、あらゆる情報がネットで入手可能になった。通信手段も格段に発達し、原稿も写真も、世界のどこからでも瞬時で届けられる。入社した頃のことを思うと、夢のような話だ。
 
それでは、記者という仕事が現在バラ色かというと、新聞記事の価値は相対的に低下し、紙媒体の部数も激減。人員削減も劇的に進んでいる。古巣の新聞社にいるかつての仲間に尋ねると、社内ではネットでビューを稼げる記事が一番求められているという。それは、こだわって取材し、上司のデスクともせめぎ合って作り上げた手作り感の記事よりも、例えば、世界中でクリックしてもらえるほほ笑ましい動物の写真や動画を撮影した方がよっぽど喜ばれるという何とも情けない状況なのかもしれない。

その行き着く先が今回のテーマであるAI生成記事で、ラジオ番組に出演した元SI誌記者が懸念する光景は、おそらく国を問わないのだろう。

ところで、作家の村上春樹さんが最近、米AP通信の取材に応じ、「AIを使ったコンピューターであるデジタル『作家』が、創造的な執筆を人間が独占している状況に挑んできたらどうか?」(And what if a digital “author” - a computer using artificial intelligence - were to challenge our monopoly on creative writing?)という記者の問題提起に対し、次のように答えた。

「小説を書いているとき、私の頭はバグでいっぱいだが、それでも私はまだ脳を使って小説を書く」( I’m writing a novel, my head is filled with bugs, but I still write novels using the brain.)

「コンピューターが私と同じくらい数多くのバグで満たされているとすると、ダウンしてしまうだろう」(If a computer was filled with as many bugs as I have, I think (it) would break down.)

この英語の原文に出てくる「バグ」(bugs)は、もともとの意味は「虫」だが、そこから派生したIT用語としては「不具合」といった意味合いで使われている。ここからは私の想像だが、村上さんが意図するのは、必ずしも理路整然としない無限のアイデアが頭の中を駆け巡るが、それはAIにとっては理解を超えた不具合でしかないであろうという痛烈な皮肉であり、AIへの対抗心だろう。世界的な名声を得た作家だから言えることかもしれないが、私たちも同じような強い意識を持って活字に臨んでしかるべきだ。

AIを含む技術革新を否定するつもりはないし、その恩恵に浴しながら、記者を含む書き手が活動するのは当然だ。しかし、超えてはいけない一線を踏まえつつ、自分の感性を最大限にフル回転させ、大胆かつ細心の注意を払って活字を紡ぎ出すプロ意識こそがいっそう必要だ。AIをどこまで導入するかを巡る徹底した議論をしつつ、そもそも一字一句が決定的な意味を持ちうる活字の危うさと可能性にどう向き合うべきなのか、それを職業とする書き手やメディア経営者たちが改めて自問すべき時だろう。

飯竹恒一(いいたけ・こういち)
フリーランス通訳者・翻訳者
朝日新聞社でパリ勤務など国際報道に携わり、英字版の取材記者やデスクも務めた。東京に加え、岡山、秋田、長野、滋賀でも勤務。その経験を早期退職後、通訳や翻訳に生かしている。全国通訳案内士(英語・フランス語)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?