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静謐な景色と激動の感動:吉田博展

「けれども私は自然を崇拝する側に立ちたい」

登山家でもあり、版画家でもある吉田博展へ行ってきた。
正直言って、版画なんて小学校の頃に彫刻刀片手に摺っていた、図工の時間での記憶しかなく、面白みは見出せなかった上、絵画などと比べ、あまり興味もわかなかった。
―そう、興味なんてなかったのだ。彼の版画を見るまでは。

まず、彼の経歴を知って度肝を抜かされた。
1876年に生を受け、1950年に逝去するまでに彼は幾度となく海外へ渡っている。
第一次世界大戦も第二次世界大戦も経験しているが、それよりも、23歳で渡米し、デトロイト美術館で展覧会を開催しているのだ。その展覧会は成功し、後に渡欧。そうして、海外の収集家にはどのような構図が人気なのかというデータを取りため、自身の作品に投影もしていた。

当時、留学をすると言えば、フランスだったそうだ。何故なら国費で行けるから。そこに疑問を覚え、仲間一人と共に渡米した。
反骨精神も良いところかもしれない。

今回の展覧会は大々的に版画がうたわれているが、吉田氏の初期の作品は水彩画だった。水彩画特有の柔らかいタッチがありつつも、しっかり色を載せ、更には優しい色間に自然の力強さを見せつけていた。

そう、彼のモチーフは専ら大自然、とりわけ山々が多いのだ。

日本の代表的な山、富士を筆頭に、剱岳や駒ヶ岳などの山頂からの美しい景色が版画となっていた。
もちろん渡米や渡欧していた際に書き溜めた、海外の山や大自然をモチーフにした版画もシリーズとして納められていた。

それらの絵を見て思うのは、わたしが持っていた版画のイメージとはことごとくかけ離れた作品を生み出していたのだなということだった。

版画としては浮世絵が有名である。
平たい木に絵を描く。これを絵師が行い、その輪郭や色の出し方を考え、高低差を付けた彫りを彫り師が行う。そうして完成した版木に色を載せ、濡らした紙をその上にのせて、摺師が絵を摺りだす。水気をすった紙は伸縮するため、その誤差も頭に入れて摺師は絵を摺るそうだ。
浮世絵は平均的に10回前後摺るのだそう。

吉田氏の作品は摺る回数がずば抜けていた。
平均30回前後。浮世絵のおよそ3倍。
日光の陽明門をモチーフにした画など、およそ100回近く摺っているらしい。
完全に摺師泣かせの版画家である。

吉田氏は基本的に、彫る時も摺る時も、職人の傍らにべったりとくっついていたそうだ。自分の中にある画に近づけるためだったのだろう。
妥協なく突き詰めた作品を作るため、彼はストイックに彫りと摺りの工程もしっかりと学んでいた。なので時折、自分自身でも彫りを行っていたらしい。

版木が2つだけ展覧会では飾られていた。
濃い色を何度も使用したせいなのか、木の色が真っ黒な個所もあった。明るい色を使っていたであろう場所は、ほんのりと赤みを帯びていた。
その版木を額越しに見て、やはり驚嘆した。
一番高いラインは、画の中に描かれる対象物をかたどった輪郭線だった。そこからうまく高低差を付けて掘り下げており、版木だけでも圧巻だった。

またなるほどと思ったのが、構図は同じでも、摺るものと摺らないものを選別することで、同じ版木でも全く異なる印象の画が出来上がるという事。
色と摺る対象を絞って、様々な印象を与えている作品で印象的だったのは、恐らく有名どころの「帆船」だった。このシリーズは「朝」、「午前」、「午後」、「霧」、「夕」、「夜」と、なんと6種類ある。同じ版木を使用しているはずだが、それぞれが全く異なって見えるから不思議である。
帆船シリーズは上記のウェブサイトでもちらっと見る事が出来る。

そしてわたしが何より惹かれたのは、「夜」をテーマにした作品だった。

帆船のようにシリーズと化したものの中にある「夜」もあれば、夜の街や景色を題材にした版画も多数あった。そして、その「夜」に共通しているのが、青だった。

夜の帳は濃淡をつけた青で表現されていた。
遠くに見える人々の営みは小さな明るい色で摺られ、夜の中にひっそりと佇む建築物や、水面を揺蕩う船達には、青い帳が下りていた。
その青がとても、アルフォンス・ミュシャの作品、とりわけ「源故郷のスラヴ民族」の絵を思い出させたのだ。
恐怖が同居する夜。明かりが一切ない画もあった。それでも、彼の「夜」が美しいと思えたのは恐らく、暗がりの中でも、本来在るものは、在り続けているのだという事がわかったからだと思う。
見えなくても、実際存在しているのだと。

西洋の人文主義に迎合せず、冒頭の言葉を胸に、大自然を中心に版画を制作していた吉田博。
写実的なスケッチや画にも関わらず、どこか西洋のそれとは異なる輝きを放っていたのは、恐らく日本特有の精神が水彩のような色調のなかで生き、そして現代に通じる漫画チックな画によるのだと思う。
彼はそうして、西洋の絵画のような繊細なタッチを版画で表現することが出来たのではないだろうか。

第二次世界大戦後、GHQが吉田氏のアトリエ兼自宅が建てられていた場所を押収しようとした事があったらしい。その際彼は、芸術家にとってアトリエがどれだけ大事かを、GHQ本部へ乗り込み英語で力説したという逸話を残している。

何事にも迎合せず、自身の中に芯を確立していた版画家。
激動の時代であったはずなのに、それをものともせず、芸術に向かいあってきた。49歳で版画を始めたというのだから、人間、やろうと思えば年齢とは関係のないものなのかもしれない。

静かな画が多かったにもかかわらず、鼓動は絶えず、うるさく響いていた。
そんな展覧会だった。

おしまい

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