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歌は手段であり、勇気と貫くことの話:竜とそばかすの姫

2,400円も払って映画を見るのは初めてな気がする。
チケットを取るのが遅くなってしまったから、席はC列。2列の後ろに通路を挟んだ3列目だった。
映画にはわくわくしていたけれど、それを半減する金額と席だったことは事実だった。
それでも結局は、その金額を払って、あの前目の席に座ってみたことは正解だったのだと、映画を見終わってから切に感じた。

ストーリー

自然に囲まれた田舎町で暮らす高校2年生のすず。
幼少期のトラウマによって歌うことができず、作曲ばかりをして、自分の殻に閉じこもって過ごしていた。
そんなすずを巨大な仮想世界「U」へ誘う友人のヒロちゃん。
そこで得たアバターのベルを通して、すずは歌うことができ、そして「U」の住人たちをその歌声で魅了していく。
親友
ヒロちゃんのプロデュースの元、ある日ベルはコンサートを開くが、そこへ「U」の住人たちから忌み嫌われている竜が、パトロール隊と闘争をしながら乱入。
全ての人から叩かれ、忌み嫌われている竜のその振る舞いを疑問に思い、ベルはそこから竜を探しに行くのだった。

着眼すべきは「歌」ではなくて、

正直な話、お話の構成的にはいまひとつだったと思っている。
世界観や歌などの処理に脳の大部分を当てていると、ストーリーの進み方に疑問を持つこともあるし、腑に落ちない箇所も出てくる。
今回の脚本は細田監督が手掛けているようで、サマーウォーズやおおかみ子供、または時かけの時の奥寺佐渡子さんは関与していないようなので、図らずも納得してしまった。

「歌」という要素が、この映画を大いに構成しているように見えるけれど、すずに着眼していくと、「歌えること」がすずにとっては主軸ではないと思えた。
すずにとっての歌は手段であり、武器であるだけで、「歌うこと」に固執していたわけではない。
だからこそで、歌えずに苦しんだ過去よりも、歌うことで、亡き母を思い出し、なぜいなくなってしまったのかという理解し難い現実をいまだに引き摺っている描写が多かったのではないだろうか。

そしてその理解し難い現実を理解するために、竜が現れたのだ。

50億人の前に晒されたすず。
ネット民の前に晒されたすずの母。
批判に狼狽えず、自身の信じるものを貫いていく姿は、やはり母子だった。

万人の万人に対する闘争のある世界

可視化された仮想世界があるとするならば、きっとこんな感じなのだろうかと映像を眺めながら考えるのが、サマーウォーズからの細田監督のIT系の映画だと思う。
CPUやメモリの表面のような世界がミクロな目線で構成されているかのような仮想世界「U」
攻殻機動隊の世界観よりもUIに特化したこの世界は、きっと将来的には現実的になり得るのではないだろうか。

そしてその美しい世界観で蠢く、有象無象の登録者たち。
後半、すずが竜を探すために「U」の世界へ姿を現した際の、黒く無秩序なアバターたちの大群を見て、嫌悪感と恐怖を感じた。

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この現実世界でもそうだけれども、ネットの世界は現実世界よりも暴力的で残酷である。
身体的な暴力ではないものの、精神的な暴力は、身体的なそれよりも、その人を死へと導く。
そしてそれを見に、多くの野次馬が群れをなしている世界。
それを個性豊かなアバターと美しい仮想世界で表現しているように思えた。

「U」の世界ではアバターのオリジンは基本的に表示されない。
だからこそで、暴力的な振る舞いをしていた竜は、オリジンの正体探し、アンベイルの対象に挙げられていた。
そしてそれを実行するための正義。
それを見て思ったのは、「U」の世界へ来た時点で、オリジンは暴かれないものの、オリジンの本性はアンベイルされているのではないかという事。

他者を傷つける行為。
ただ批判する群衆。
凄惨な正義の執行。

人は誰しも暴力的な面があるとわたしは思っている。
その面が、理性という現実から解放され、無秩序で法に触れることはないネットの世界で、自由に飛び回る。
「万人の万人に対する闘争」
ホッブズが言っていたことはあながち、間違いではなかったようだ。
そんな、実は狂気に満ちた世界を、細田監督はこの映画を通して描いていたように思える。

映画館で映画を見る意味

賛否両論ある映画ではあるし、脚本はいまいちだと思ったけれど、この映画はやっぱり素晴らしいとわたしは思っている。

例えば美術館へ行く時、お金を払って入った展示会で展示されている全ての絵を気に入るわけではない。
それでも、そう言った場所へ行きたいと思うのは、展示会の演出、ストーリー性のある軸で展示されている絵や写真、そして贋作ではなく本物を見るという行為に起因しているはずだ。

この映画もそうだと思う。

わたしはIMAXで見たのだけれど、作品への没入感と音響は果てしなくわたしの耳と目と全身を震わせた。
そしてその振動と感動は、わたしの感情をも引っ張っていった。

大きなスクリーンを前から3列目で見ることの不安感は、鑑賞し始めたらすぐに消えていった。
アニメーションなのに、まるで目の前で事が起こっているかのような感覚を覚え、後半の「歌よ」のシーンでは、アバターになって見ているかのような錯覚さえ覚えていた。
ちなみに「私以外 うまくいっているみたい」で涙腺は外出した。
(1:40くらいから歌が始まります↓)

そしてこの曲のシーン(他もそうなのだけれど)、映画館だからこそで聞こえた、中村さんの歌う前や歌の合間の息継ぎの音が、臨場感を煽った。
歌の合間の小さな吐息まで聞こえたIMAXの音響に、酷く感動して、なるほど2,400円はだてではないなと思った。

賛否両論あるからこそ、自身の目と耳で確かめるべきものなのだ。
レビューをいくら読んでも、字面の印象は、映像の印象に勝ることはない。
作品もさることながら、わたしはこの映画を通して初めて、映画館のスクリーンと音響の素晴らしさを実感した。
映画館が営業してくれていて本当に感謝しかないのである。

ちなみに、作中本気で奇声を挙げそうになったのが、宮本充さんが声を当てていたことが発覚した時だった(あと津田健も)。
なんでよ?
どこにもそんなこと書かれてなかったじゃない。
キャストに載せておいてよね!
危なく手に持ってたハンカチ、通路に投げつけて、きゃー!とか言いそうになったじゃない。
森川さんもたくさん喋ってくれるキャラだったので、耳福でした。

おしまい

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