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文学に接続するか文学をつくるか

 かねてより僕は「文学に接続したい』と本気で思っている。『文学に接続する」とは、小説や短歌を作っているもの同士のコミュニティに属したいと言う意味である。要は、僕は小説を書いているので同じくらいの年齢の小説を書いている若者と色々話せる友達になりたいのである。これが僕にとってどれほど難しいことなのかと言うと、それはまるで砂漠の中から1箱の煙草を探すようなものなのだ。そもそも僕は現実の友人には小説を書いているなんてことは口が裂けても言わないタイプであり、最近はもはや小説すら書いていない。自分が必至で書き続けていても自分の集中力に反して文字にならない。この前「つらつらと書いていたら5000字を超えていたよ」みたいなnote記事の記述を目にしたが、僕は極めてそんな体験をしてみたいと思うのだ。これで350文字。集中的には1000文字書いていても良いころだが、何がどうあれ350文字。こんなこと言っている間に420文字。個人的な偏見なのだが、文学に接続するにはやはり文字をいっぱい書けないといけないと思う。僕は偏見深い人間だ。何事に取り組むにもまず先入観が邪魔をしてしまい、一歩踏み出す勇気が出ずにいる。あるいは、踏み出す勇気が出ないので、その言い訳としての偏見を作り出すのが上手くなったのかもしれない。ここで640文字近く来た。集中力的にはもう2000文字、3000文字越していてもいいところなのだが、こんな感じに自分の書けた分量を読者様に報告しながら、この記述は進んでいく。これは僕がずっと直したいと思っている、人生において最も厄介な己の性格のうちの一つである。783文字。書いていてふと気づいたが、僕の文章には特徴と言うか下手くそな点がある。それは例示や比喩をまるで使えないという点だ。ある時、小説は果たして文体が先なのか、はたまた書いてある中身が先なのかと考えたことがある。その時は結局コメダ珈琲店で小一時間考えた挙句「中身だろう」と言う結論に至った。今再びこの問題を考えて見る、もちろん米田で(いま米田で執筆しています)。もし文体が先んじるという仮定が真とすれば、大衆小説として市民権を得た「恋愛」と言うジャンルはそのしみったれた中身に反して市民権を得られるだろう。実際社会ではそうである。僕的には、金払って人の色恋沙汰を見る理由が分からないのだが、これはケーススタディと言う意味を込めて読んでいるのだろうか。いつか来る理想の相手との駆け引きに生かすため?この例をとって考えれば、僕はこの恋愛と言うジャンルがとてもナーバスな大学生の干渉に絶えられないと思ったため、背理的に「中身だろう」と結論していた。今思うと、これは社会に逆張りしていただけであり、自分の意見でも何でもない。じゃあ自分の意見はと聴かれると、その意味では、正直どっちでもいい。書いていて情けなくなってきた。1260文字。中身も脱線を始めた。ただ、今は、僕はいろいろな経験を経て「社会に迎合したい」と考えることが多くなったため、こと恋愛ジャンルのメディアと言う話題においても、「社会がそれで成り立っているんならそういうことなのだろうな」と考えざるを得なくなっている。老いとはそういうことであると思う。今僕は猛烈に老いている。話を戻そう。ここは「文学に大事なのは中身である」と言う立場を仮定して置く。この場合、僕は結構いい文章を書くと思う。自分にしか伝えられない中身を伝えていると思う。根拠もない自身で申し訳ない。しかし一方で、実際、僕の小説は全くバックボーンのない人が読んでも干渉に耐えうる伝え方ができているとは言い難いと考えている(これは僕の文章が極めて下手くそだからである。鍛錬します)。こういった、僕は自分の書いた文に対して、相反する何かが存在しているので、自らの小説作業に一抹のアンビバレンスを感じるのだ。いっちょ前に自意識の高い男で何よりである。一回死ね。1685文字、のってきた。自分の小説作業を肯定しなくては、文学に接続できない。それ以外の方法では多分僕は無理だ。小説を介しない場合、それは人間同士のコミュニケーションになる。悲しいかな、僕にはそれほどコミュニケーション能力や面白がる力がない。面白がる力と言うのはコミュニケーションに対して結構大事なファクターだと思う。『今から急に海行ったらおもろくね?」「おもろいね」ということであり、それに追随する形で会話と言うのが生えてくるのだと思う、無から何かを生み出すのは極めて難しい。僕は最近「今から急に海行ったらおもろくね?」「重りいだろうけど、明日速いから』と言う具合である。現実はおもろくないと思ったから断っているのだが。言い訳すると、本当に面白いと思っていても自分の予定を優先しがちな時もある。ごめんなさい現実で面識があった人。いったん人生をやり直したい。こういうのがあるから僕はリアルで知ってる人に「小説書くのが好き」だなんて言えないんですよ。お前こう書いてたからそうなんだよな?みたいなことを言われて「いや、そういう時もあるし全然逆の時もあるよ…」と言っても許されるのだろうか。許してくれ。僕はそんなに単純ではない、ひねくれものの部類だ。その意味では、ある程度の匿名性が担保されているのは、小説をまがまがしいカオスたるインターネットの中に産み落とすことの功罪のうち良いことのひとつだろう。書いていても鬱が進行しそうである。言行一致という陽明学の概念があったが、そういう風にして生きるのは難しいし、そうやって生きようとするのは辞めた方が良いかもしれない。息が詰まる。でもある程度僕は今は誠実にあろうとしている。言ったことをやるように、やったことだけ言うように気を付けている。それがどれだけの人を傷つけたのか知らない。ここでタイトルにもあるテーマに戻ると、結局は、二つの選択肢がもとは一個であったことに気が付かされる。何度も言っていることで、「自分の小説作業を肯定する」と言う唯一の命題である。言及しなかったが、もう一方の選択肢の「文学をつくる」にはこの命題は言わずもがな不可欠なのはわかっていただけるだろう。これが全くできないために僕は苦しんでいる。そして、自分で自分をほめることができないから、他人に「お前はこれでいいんだよ』と言ってもらうことを求めて、それを言ってもらうことだけを喜ぶ、どうしようもない性格を僕は持っている。僕が文学に接続したい理由は、この「お前はこれでいいんだよ」を逆説的に獲得したいからなのである。自分自身の肯定を得ることができず、かわりに他人からの肯定を得るのを目的としているのに、自分を肯定できないと入れないコミュニティにはいりたい、という極めて自己中心的ななにもわかっていない欲望を今までたいそうに述べつらっていたわけである。幻滅したらブラウザバックしてもらっていい。去り際にもし貴方が、この男にイラついていても、説教はできる余裕があったら、コメント欄に失望した旨を書いていってくれると嬉しい。書いていて、僕はあまりに自分の性格が悪いのを自覚して、めまいを覚えている。ここまで3000文字、読んでくれたあなたを愚弄するようなことをして本当に申し訳ない。あと2000字くらい続けようかと思う。つらつらと!

塩漬けしすぎて何をかくべきだったか忘れた。


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