【楽園の噂話】 Vol.10 「海原雄山は幸福になれない」 (No.0063)
最近は全く読んでいないのでどうなっているのかわからないグルメ漫画「美味しんぼ」のラスボス海原雄山は、陶芸家にして至高の美食家です。
彼は陶芸と同じくらいに食にうるさく、自分の納得いく味のためならどんな犠牲も問わない男です。
彼は僅かな味の違いも見逃しません。
誰も気づかない細かな素材や調理法の違いをすぐに見抜き、厳しい批評を行います。
この男には誰も叶わず、それ故にあらゆる業界や人物から尊敬され恐れられているのです。
主人公である雄山の息子、士郎も頑張って父に追いつけ追い越せでやっているし、引き継がれた才能もあるのですが、なかなか勝てません。
父の雄山の方が一枚も二枚も上手で、料理対決はいつも負けてしまうのです。
「ブラックジャック」 「ギャラリーフェイク」 「バキ」などなど、マンガにはこのような特定のジャンルで異常な知識量や拘りや力を持った男が出てきて、半可通な人物をやっつけたり、似たセンスの持ち主と闘ったり、その拘りゆえに損をしたりして中学生くらいの精神を持ち合わせた背広を着た男たちを悦に浸らせたりするのです。
勝手にやっていればいいよ、と感じるものですが、しかし過去に書いたとおり(【想像の番人シリーズ】)、フィクションやサブカルチャーは決して軽視して良い存在ではなく、人に大きく影響を与えてしまうものなのです。
たしかに雄山のようにゴマシオのオールバックでお高い和服を着たりはしないでしょうし、出された豆腐を器を持って一息で食べたりもしないでしょうし、フランス人に肉料理を振る舞う際に醤油を一滴たらしたりもしないでしょう。
アニメで異常に声が高かった富井副部長のモノマネくらいなら可愛いものですが、ウッカリ食事にケチを付けたりするようになったり、士郎のように世をすねたニヒリズムを真似したりし始めると、これは問題です。
事実「美味しんぼ」はヒット作です。ニーズはともかくアニメ化も実写映画化もされました。
この作品ではじめて知った料理や素材、食品も政情も色々あると思います。
場合によっては、イケスで泳ぐ魚よりも予め〆てしまった魚のほうが美味しいなどの情報は、このマンガ以外では知りようもないです。
しかし別にそんな情報は知らなくても問題ありません。
イケスの魚を〆てもらってその場でお造りや寿司にしてもらう機会なんてほぼありません。
殆どの人は別に何処の鮎でも良いのです。
美味しいからといって食卓に土の盛ったトマトの植木を出されたって嬉しくありません。
食事するときに土をテーブルに置くだけで不潔です。刻んだ野菜サラダでいいです。
海原雄山は拘りと才能故に周りとぶつかります。
孤高の芸術家というわけです。
彼は陶芸でも美食でも極めようとトコトンまで追い求め、生涯かけて高みを目指すのです。
しかし聞こえはいいですが、本当にそれは「高み」なのでしょうか?
多くの人が目指す目標はやはり「しあわせ」だと思うのです。
これはウルサく言いだすとキリありませんが、要は「安らぎ」や「安心感」ではないでしょうか。
現在コロナとか言ういい加減なウィルス騒ぎをマスコミが煽ってますが、こうやって仕事や健康や将来やらで「安らぎ」や「安心感」が奪われていることに、人はハッキリと「不幸」を感じていると思います。
どんな人であれ日々生活を過ごすことで、段々と人生が「幸福」になっていくことを目指すはずです。
薄っすらとでも、ボンヤリとでも、短期的でも一瞬でも、その幸福を少しずつでも増やしていける様に生きているのではないでしょうか?
たとえ異性と接点のない人でも、一人で迎えた誕生日に、
「来年こそは誰かと過ごしたい」
なんて思うのではないでしょうか?
そして若干でもそのチャンスがあれば、すかさず何らかの想いを抱き夢想したり、頑張って声を掛けたりなど行動に移したりもするのではないでしょうか?
人は誰だってそうやって幸福を目指して生きるものです。
そう考えますと海原のしていることは一体どうなのでしょうか?
彼の美食への追求は「安らぎ」や「安心感」に貢献する行為でしょうか?
一体、日本酒が味で言い当てられることが「幸福」に反映されるのでしょうか?
昔から「空腹は最高の調味料」というように、お腹が空いていたら何でも美味しいものです。
また病気になったら食べたいものも食べれません。美味しくも感じないかも知れません。
僅かな味の違いで良し悪しを見抜くその力は、自分の受け入れる範囲を狭めているだけでしょう。
海原は、普通の人達が食べるものを口にしません。ハンバーガーも知らない人でした。
私達は大抵のものを美味しくいただくものですが、彼は探して探してやっと見つけた料亭やレストランでしか食事は取れないのです。
枕が変わると寝られない人と、どこでも寝られる人は、一体どっちが安らぐ回数が多いでしょうか?
海原は自分の拘りを強めれば強めるほどに人生の「安らぎ」からは遠ざかるのです。
彼は高みに「登っている」のではなく「下っている」のです。
1億円の絵画でないと満足出来ないほど目が肥えた人は、野に咲く春のお花の美しさに感動することは出来ないのです。
高級なブランドの服をまとって化粧も髪も手入れをしないと人前に出られない人は、着古したTシャツと洗いざらしのジーパンや半パンで親しい友人と気軽に出かけたり、行きつけの小銭で飲める喫茶店に腰掛けたり、川まで自転車漕いだり思わず跳び込んだり出来ないのです。
こんなふうに幸福を目指して登っているつもりが下っていたというケースは別に特別でもレアでも何でも無く、残念なことに一般的にあるのです。
お金やモノ、地位、名誉に目がくらんでいる事が当たり前になっているのです。
マスクを転売することが人生の高みですか?
小銭のために、自分自身の心にも無い情報を言われるがままにネットに垂れ流している人生が幸福の階段を上がる行為でしょうか?
現在は世界中で一部の都市がスマートシティという名で、ハイテク化した社会を実現するために動いています。日本でもスーパーシティなんて雑な英語で推し進めています。
「未来世紀ブラジル」や「マイノリティリポート」の世界です。
観た人はおわかりですね。
これは「登って」ますか?
「下って」ますか?
【楽園の噂話】 Vol.10
「海原雄山は幸福になれない」 (No.0063)
おわり
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