【楽園の噂話】Vol.24 「作品は手をとってあなたを導く」(No.0198)


 先日の記事(【楽園の噂話】Vol.23 「その作品は『地獄』に近いか⁉」(No.0197) )で、作品への評価の尺度に現実感を使われていることについて書いた。


少し視点を変えて作品を作る側から見てみると、仮にリアリティがある作品であってもそれは作り手の想いや願いなど夢が軸になっている。現実感のある舞台建てであっても起きていくことやその果てにある結果は現実と一致なんてありえない。現実の再現が作り手の夢であることも珍しくないが、それが現在進行形であれば現実が同時に2つ存在することになるし、過去未来であれば現在に再現した時点でフィクションである。


どこまでいっても作ったものは現実ではない。そこに精力や怒りを注ぐ人もいるようだが、そんな問題は気にすることはないのではと思う。
作品の魅力はまさに現実とは違うところだと思う。それはどちらであっても。つまり作る側でも消費する側でも。


どちらであっても作品は現実に単なる彩りを添えるだけではなく様々な可能性を見せてくれる。現実との違いがある以上、勉強になるという重きを置いてしまうのは、またしても作品への現実感の要求が強まってしまい魅力を削ぐことになりかねないが、新しい何かを知る程度のことであれば作品は大いに力になる。


よく作品への耽溺は現実逃避という言い方で非難される。たしかにそういう事態は存在するし問題として見ることにも否定はしないが、耽溺する側であってもそれを避難する側であっても、こういうときにはキチンと現実との違いを人は意識して扱う。耽溺するものは憧れとして扱い、避難するものは危険や不快として扱う。
ものや程度による以上、これだけでは肯定も否定もできない。だがあくまで魅力だけを語るとするならば、きっとそこにはある種の救いが存在するのだと思う。


空腹のものが作品のなかで豪華な料理を見たときに、自分が食べられないことに対して怒りを滲ませるよりも、まるで自分が得られたかのような喜びがまず先にあると思う。
この手の喜びや救いが作品にはたくさんある。そして手にしていることでいつでもどこでも何度でも味わえ得られるのが魅力だ。
それは必ずしも知っているものとは限らない。むしろ知らないものに対してこそこの魅力は力を発揮する。
仮に、ここに一冊の漫画があったとして、それが何であれ、読む人はその数百ページに描かれたものの多くを知らない。
だが、全てにではなくともその知らないものから魅力や関心や感動が得られる部分があると思う。
人は作品に触れたときに、知らないものに対して想像をめぐらしたり、知っている似たものと比べたりして接点を得ようと何時の間にかもがいている。
謎解きの解答を求めるように気を揉んでいるのだ。その作品から遠ざかっても、現実にふと現れたときにはやはりその謎解きを再開させたりする。
もともとその謎はその人の人生には無かったものだが、作品との出会いにより生まれて、日常生活の中でも関心事として影響を与える。
甘い味しか知らなかった人が辛い味の存在を知ったことで、その辛味を味わいたいと思うようになるだけでなく、味に種類が存在することも知るのだ。
ならばもっとあるのではないか?そういう思いにまで人を駆り立てる。
その人の人生に幅が生まれるのだ。


もし作品が、対象とする存在が既に認知しているものだけを扱うことに専念しだすと、こうした魅力が大きく減じてしまう。
現実の尺度が厳しく作品を審査するとき、作品はその媒体ごと力を失う。
自分たちに作品を引き寄せることになるのだ。


しかしそうではなく、良い作品に自らが近づこうとすることが作品の最大の力だと思う。
紙であっても絵の具であっても、例え音であっても映像であっても。
これらの作品は動いてはいない。動くのは鑑賞するものであり、鑑賞者を動かすこと、その人の人生を動かすことが作品の力だと思う。


だからフィクションなどと、世間的には軽く捉えられている存在であっても、注意が必要なのだ。
作品は人を動かすことができるのだから、フィクションであっても、良作との出会いが重要だと思う。


【楽園の噂話】Vol.24


「作品は手をとってあなたを導く」(No.0198)


おわり



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