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「ラブライブ!」という「呪い」で、推しの''声優アイドル人生''を追い越した。



22/7 4thシングル 「何もしてあげれられない」
(2019年8月21日発売)

1,804日目


『わたし』と『彼女たち』

あなたは秋元康×ANPLEX×SonyMusicがタッグを組んだデジタル声優アイドル 22/7(ナナブンノニジュウニ)というグループをご存知だろうか?

それぞれのメンバー1人1人にそれぞれ担当するキャラクターを与えられており、キャラクターデザインにけいおん!などで知られる堀口悠紀子さんを迎えて、秋元康版ラブライブなんて揶揄されていた、(元)11人組アイドルグループだ。

2023年末現在もグループとして活動しているのは4人のみ。


「国民的アイドルやドラマを生み出し、多岐に渡る活躍を見せる名プロデューサー秋元康」×「大ヒットアニメを量産し続ける火付け役ANIPLEX」×「ゲーム業界や音楽業界も席巻した世界に誇るSONY」がタッグを組むなんて、アイドルとアニメの融合の極地。
往年の活動ではZeppをオルスタで埋められるくらいの人気規模だったけれど、私は…勢いそのまま、「日本最高峰のエンターテイメントになれるのではないか」と本気で信じていた。

今やあの頃の希望に満ち溢れていた日々は見る影もなくテセウスの船として騙し騙し活動は続いている。やはりどこもかしこもハリボテだ。
フィナーレへの足音は日に日に大きくなっているけれど、そんな空気を肌で感じながらファンは必死に目を背け、彼女たちを信じ続けている。

推しのグループ卒業に伴って、その夢を当事者として見届けられることは叶わなくなってしまった。それでも私にとってのあの場所は今もなお追い続ける唯一無二の推しを見つけられた故郷である。

そして私事ながら2023年8月11日を以て、推しの"声優アイドルとしての芸歴''を追い越すファン歴となった。


…この一文だけでは不明瞭だと思うので、少々嚙み砕いて説明するならば。


①2016年12月24日。22/7(ナナブンノニジュウニ)が結成。

➁筆者がファンになったのは、2018年9月3日。

③2021年11月30日。推しがグループを卒業。それまでの期間1803日。

④2021年12月24日。改名し、推しが声優として活動再開。(休業期間24日)

⑤筆者は2018年9月3日から22/7のファンなった為、声優アイドル時代のファン歴と合算すると、2023年8月11日で“推しのアイドル歴(③)”を超える計算になる(1804日~)


傍から見たら一蹴されるような何気ない日かもしれない。
しかしそれは生まれて''10,000日(27歳4ヶ月)記念日''を祝うか祝わないかレベルのものだと思うし、当人の心持ち次第だ。
周りが祝わないからと言って自分が祝わない理由にはならないし、ファン歴がゾロ目だろうと、自分がその日を大切にしたいのなら、声を上げるべきだと私は思う。



今までコンテンツを追いかける日々の中で様々賛否巻き起こる論調を吐き出してきたけれど、今回はこの記念すべき大台で「どのような因果を経て22/7に出逢ったのか」そして「何もなかった私が何故今このnoteを書くまでに至ったのか」そこまでの道筋を等身大で書いていこうと思う。
仰々しく前置きを置いても、蓋を開けてみれば、ただの日記にすぎないので革新的な事は何も書かれていないし、ハードルの下をくぐるような読み物となるだろうけれど、正真正銘私にしか書けないnoteだろう。気が変わらぬうちに納品しておきたい。

ドルオタなんて所詮エゴの塊。
どこまで行っても自己顕示欲との戦いである。自分が推しを円満に追いかけられる為なら、黒だろうと白と信じ、自己暗示のように主張する。だからこそ「コンテンツが好き」だという気持ちだけが原動力だった純粋な頃の歴史を文章の中だけでも生き続けさせてあげたい…そんな歪な親心が芽生え始めているのである。


勢いそのまま筆者の自己紹介をしていくとする。

1998年、茨城県に生を受け、今まで参加した推しのイベント(ライブ・舞台・トークイベント等)は2023年現在130回を超えて、今や推しの共演者のイベントやファンクラブにも裾野を広げ、周りのキャストにも推しと自分を認知してもらっている。

我ながらファンとして充実した地位にいる。
辿り着いたなら満喫したいし、「私は今幸せだ!」と声高らかに主張していきたい。「私の生き様を誰かに見て欲しい。」そんなタイプの人間だと思ってもらって差し支えないと思う。

その地位に甘え、ここからの歴史は誇張無くノンフィクションで書き綴るので、情のない外野から見れば、なんの面白みのない産物が完成するかもしれないけれど…夏休みの最終日にまとめて書いた''ちぐはぐな''日記のように、ラフな気軽な気持ちで読んで欲しい。


記憶は徐々に風化する。
僥倖の一夜もいつか記憶の欠片になっていく。
なんとなく「あの頃は、よかったな」が積み重なり''いま''に侵食する。


読者の一人でもこの記憶を共有できるならいつか自分の経験のように語り継いでくれる日が来るのではないだろうか。

そんな夢物語を描きながら、古の記憶を手繰り寄せて行こうと思う。



推しの名は、''海乃るり''。


22/7 戸田ジュン役 海乃るり


私の人生史上、最初で最後に推したアイドルが彼女だけなのだから、私史上最高のトップアイドル

推しはグループ加入から卒業までライブイベントの欠席は1回のみ。
それも舞台の仕事とダブルブッキングになってしまった1つのアイドルフェスのみである。

彼女は泣き言ひとつ言わずその約5年間を全力で駆け抜けた。


ファンの前で涙や努力を見せることを美徳とせず、表舞台では笑い、裏で泣くような子。謙虚で誠実。メディア用に良い恰好はするけれど、時々狡猾な一面を隠しきれず、時にはまとめ役になったり、イジられ役になったり、自分の役目をいち早く理解する子で、引き際も知っている。学生時代は贅沢にも「八方美人」で悩むような、誰よりも人間味のあるメンバー全員に愛された女性だった。

たとえ私の見る彼女が全て作り上げられた虚構だとしても、それを私は「ユメ」と呼んで、馬鹿正直に信じてみようと思える、人生を賭ける価値のある、賭けた価値があった…そんな存在。

「22/7 ANNIVERSARY LIVE2021@国際フォーラムホールA」より
(アイドルとして最後のステージ ラストMCパート)



『本当に、本当に、ほんと~~~に!!楽しかった』



海乃るりと共に生きてきた分身とも言える存在、CVを務めた戸田ジュンの台詞を引用し、アイドルとしての最後のステージを去った。『活動中に辛いと思うことは一度もなかった』と添えて、22/7のデビュー4周年を祝うANNIVERSARY LIVE2021にて、グループを巣立って行った。

TVアニメ 22/7 7話「ハッピー☆ジェット☆コースター」より


ファンすら弱音を吐けないくらいに彼女が眩しくて、ファンの涙も枯らす優しい太陽のようで、メンバーもファンも纏めて守ってくれていた。それ故、私は彼女を英雄(ヒーロー)だと形容していた。

照れくさそうに笑ったあの時間すらも何処か歯がゆく愛おしい。

私も彼女の活発な活動に呼応するように、2019年5月から北は北海道、南は大阪まで開催されたライブやフェスに全て参加した。(海外イベントは学生のご身分では到底手が届かなかったけれど…)その熱量を保ち続けたまま、最後まで絶頂の状態で海乃るりを推し続けた。


ここまで登り詰められたなら、「自分にも''アイドルオタク''の様にアイドルを推す才があるのではないか?」と大志を抱くこともあったけれど、今思い返せば好きになった子が声優アイドルだっただけで、3年半の間、様々な大型アイドルフェスに足を運んだけれど会場の1人として盛り上がりはするものの、どこか踏み込みきれない疎外感を覚え続けていた。




「推しともっと前に出逢っていれば」と思う日も多々あるけれど、こうしてたくさんの思い出や友人に囲まれて、こんな言葉があなたに届き、今があるのならこれが最善の出会い方だったのだろう。

『まちがいさがし』の間違いの方に生まれてきたような気でいたけど
『まちがいさがし』の正解の方じゃきっと出会えなかったと思う

まちがいさがし/菅田将暉(作詞・作曲 米津玄師)


''あの頃''はコンテンツの愛し方もまともに知らなかった。
今や「ファンはこうあるべきだ」なんて偉そうに口にしているのが不思議なものだ。

このnoteには、「こうあるべきだ」という思想は一切なくて、「こんなヤツもなんだかんだ元気でやってるよ」というダイイングメッセージ。

それでは私と推しとの出会いを恥も外聞も無く、赤裸々に話して行こうと思う。




―――――ここから時は8年ほど巻き戻る。


何者でもなかった私が「海乃るり」と出会うまでの話。


2015年、当時の写真(中学卒業からスマホを持った友人も多かった)


2015年12月。
高校2年生の16歳の冬。


大晦日の誕生日プレゼントの前借りで12月15日発売した「ラブライブ!The School Idol Movie」のBlu-rayを母に買ってもらった。

あの時は店舗ごとに特典が違うことすら知らぬほどの知識量だったが、それでも最寄りのアニメイトで買ったことを覚えているくらい鮮明な記憶であった。

そのBlu-rayに封入されていたのは「''μ's Next Live チケット最速先行抽選申込券''」。後のμ's Final LoveLive!〜μ’sic Forever購入者チケット先行申込券である。そんな招待状が封入されていることも知らず、当時は「映画のついでにラッキーじゃん!!」くらいの気持ちだった。

そのLIVEに込められた意味も、いくつもの屍の上で成り立った10万人(東京ドーム2Days)が訪れる場所であるなんて知る由もないまま。「どうせ''Final''と銘打ってるくらいなら映画も素敵な作品だったし、いい機会だと申し込んでみよう」と思った。


「当選してから親を説得しよう」。


『「ラブライブ!The School Idol Movie」Blu-ray12月15日発売告知TVCM』より


応募要項を丁寧に細部まで読んでみると、1つのシリアルナンバーで2枚まで申し込めると言う事を知った。そこで私は、アニメを2期まで履修して映画も共に観に行った同じクラスの駅伝部の友人に連番を持ちかけた。


私も友人も今の言葉でいう在宅ファン

そうは言っても高校生の私たちには、イベントで東京に赴こうとする概念もそもそも存在しなかった。あの頃の私たちは「自分史上自分が一番のラブライバー」であり、「自分とラブライブ」間でコンテンツは完結していた。(今思うとその方が余程健全だったし、画面の中の存在くらいの距離感が品行方正なファンでいられたとは思う。)

彼はその誘いを二つ返事で快諾してくれた。



そしてその結果、2016年3月31日公演が2口当選したのだった。


人生初の現地参加LIVE=μ's Final LoveLive!


その権利がプレミアムチケットだと言う事も知らずに。

正直当時は「東京ドームなら、そりゃ当たるよな」くらいの気持ちでいた。その時、初めて参加するアーティストのLIVEがμ's Final LIVEだと実感が湧いてきた。今思うとなんと嘉する恵まれた事だろうか。しかし人は幸福の只中にいる時は自分の幸せを察知する感性がひどく鈍くなる。それはきっと、今も同じなのだろう。

義務教育を終えてもまだまだ幼い私たちにとって地元から100㎞離れた東京は、成人した今よりもっと遠くの異国の様に感じていた。
「東京ドーム〇個分」という何故か多用され続ける地方民度外視の曖昧な尺度に日々辟易しながらも地元の檻に閉じ込められていた学生生活に突然射した眩しい陽の光。そんな日々の中で漠然と確定している3月31日の東京ドームへ思いを馳せていた。

そんなある日、連番予定の友人から一件のLINEが届いた。




≫💬『31日に合宿が入ってしまった。』

私の母校は地元に住む者なら知らない人はいないくらいの駅伝強豪校だった。
朝練で数km走ってから自称進学校特有の朝自習。放課後も夜遅くまで練習し、遠くまで走り込みに行くゆえ補修を受ける際は主任に直談判して別日に変更してもらうほどのスパルタ具合。
そんな一目置かれた部活の合宿。普段の練習とはプライオリティが段違いらしく謝罪の言葉と共に、その合宿の価値を説かれた。本人の言葉がたとえ、文面上だとしてもその言葉の節々からLIVEに胸を躍らせていた素振りと臍を噛む思いは伝わってきたし、誘ったのは私であり、その誘いに二つ返事で乗ってくれたのは彼だ。それなら私も「NO」とは言えないし言うつもりは毛頭なかった。

私はその申し出を素直に受け入れると共に、埋め合わせや励ましの意味も込めてFinalLIVEの前日に2人で地元のゲームセンターに行って、1日中遊びまわる約束を取り付けた。

高校時代の1日2000円で得られた豪遊感は何物にも変え難い思い出を得られたけれど、帰り道の別れた時に見た背中は少しだけ寂しそうに見えた。

彼の思いも背負って、「素敵な思い出を持ち帰ろう」そう誓った夜だった。

2023年の今でも保存されていた当時のチケット。


『連番枠が余ってしまった…これはどうしたものか…。』


美談で終わると思いきや、チケットが1席分空いてしまった。のしかかる現実。

連番者を探そうにも、高校時代のカースト制度は時に残酷なものであり、大半の人間がサブカル趣味をひた隠しにしていた。1.8軍くらいでSchool Idol Movieの下敷きを授業で使っていた私でも、クラスメイトのどれくらいがアニメに造詣が深いのかもわからないまま、卒業式を迎えるほど潜伏の練度は高かった。


誘う当てがない。しかし誰も誘わないまま空席を作るわけにもいかない。24歳の今でも1万円は大金なのだから、あの頃目の前に立ち塞がるチケット代は人生を揺るがすほどの大金だった。

「高校がダメなら…中学時代の友人はどうだろうか?」

それなら1人、強烈に脳裏に思い浮かぶ友人がいた。

彼が私のオタク人生に大きく影響を与えることになる人物なのだが、(''F''inalLiveの頭文字を取って便宜上)F君と仮称しよう。


中学時代一度も同じクラスや部活に所属していないのにも関わらず、なんとなく「えも言われぬラブライバーらしい…」という噂が対岸のこちら側にまで届くような存在だった。それだけには収まらず、何故かF君の推しが西木野真姫ちゃんであるということも知っていた。
その後同じ中学校から地元で一番優秀な高校に進学したF君に一縷の希望を託してTwitterでリプライを送った。(LINEは持ってないけれど、Twitterでは繋がっているというのが「クラスが同じになったことの無い友人とのリアルな交友関係の距離感だったなぁ」と今になって思う。)

顔文字の多用する様が''学生''を感じさせる。


回答は『YES』。
こちらも二つ返事だった。

藁にも縋る思いで舞い込んだ縁だったので、「捨てるくらいなら…」の気持ちで結果的に8,000円くらいでチケットを譲り、過去グッズを一部貰う形で交渉成立した。プレミアムチケットと知っていたら3倍位の値段で売りたかったけれど、こうして紆余曲折ありながらも、生まれて初めて参加する最初で最後のμ'sのLIVEはF君との連番という形で手を打った。これで万事解決!あとは当日を迎えるのみだった。

あの頃は友達料としての価格設定であったが、仮にこの取引を1804日に出逢う為の入場料とするならば2,000円など安いものだ。


2016年3月31日 Final Live当日

当時、筆者が撮った写真。(サンキューGoogleフォト)


Live当日。F君とは新宿駅集合。

地元の牢獄に長い間飼い慣らされていたこともあって、乗り換え案内アプリなんて現代の三種の神器があることなんて露知らず、恥ずかしながら母に同伴してもらい東京へ向かった。あいにく通学も自転車通学圏内で東京行きのチケットの手配も母に全て任せてしまっていた。今思うと鈍行の普通列車で向かう選択肢もあったはずなのに、乗車したのは1,500円ほど高額な特急列車。そんな母の奮発してくれたお膳立ての優しさもあの頃は解らないまま「都会へと向かう電車はこんなにも豪華なのか!」とウキウキしながらフカフカのシートのリクライニングを倒した。所要時間は1時間で終点の上野駅へ。母とはそこで別れて、まるで1人で来たかのように新宿駅でF君と合流した。

中学では小柄だったF君は、男性の平均身長くらいまでに身長が伸びて、声も変声期を迎えて、聞きなじみのない低くハスキーな声になっていた。なにより驚いたのが、彼は後ろに数人の見知らぬ軍勢を連れていた。


「怖かった」

それが率直なファーストインプレッション。
年齢は同世代の様には見えるが染髪してる人や眼鏡を掛けている人、中には女性もいた。今や当たり前の価値観である「オタク友達」なのだろうがあの頃は何もかも新鮮で無知ゆえの“恐れ”があった。F君はTwitterで使うハンドルネームで当たり前に呼ばれており、年齢差も感じさせないまま当たり前のように会話をしていた。
中学生時代から見れば背丈も声も変わったF君だったが、それよりも「ラブライバー」という別の顔を持ち合わせていたことを眼前で体感したことにより、あの頃の数段大人に見えた。彼は既に地元の世界の尺度をとうに脱獄し、個性豊かな交友関係を広げていることを目の当たりにした。

…ここから私は彼を徐々に羨ましく思うのだった。



『私は、ラブライブを何も知らない。』


そう気づかされたのは、F君御一行と時間潰しにカラオケに行った時だった。

(今となっては会員カードを作るほどに御用達の映画館となった)新宿ピカデリー(松竹)で子供のようにはしゃぐ御一行との温度差に既に冷めた視線を向けてしまっていた。
その場の熱量で我を忘れバカになれるのがオタクの才能だと今は思うけれど、あの頃の私は極度の人見知りも相まって、ヒトを捨てきれぬままでいた。どうやら私は”覚悟”が足りていないのだろうという徐々に場違い感を感じ始めていた。

私が敬愛する女性芸人が『大人になる事とは、飲み会を盛り上げようとするのが大人、「馴染めない!!」と不貞腐れるのが子供だ』と言っていたが、まさにその実例であり、それを今noteを書きながら痛いほど実感する。

そのままの熱量で向かったカラオケBOX。

「都会のカラオケ屋は縦に長いのか」なんて思ったのも束の間、彼らは部屋の中央にある長机にペンライトを広げ記念撮影を始めた。
私もFinalLiveのブレードとAmazonで検索しトップに出てきたモノをそのまま鵜呑みにして購入した無地の白いキングブレードをそこに鎮座させた。
それが開会宣言かのように彼らはラブライブ楽曲をデンモクで登録し始めたのだ。それなのに誰も歌わない。マイクを持つ素振りすらも見せない。意味の分からない合いの手の様なものだけを叫んでいる。もちろん今ならあれがコールの練習かつ復習だとすぐに分かるはずなのだけど、あの頃の私にはその行動の意味が分からず困惑することしか出来なかった。その違和感を紛らわす為にデンモクで”解ってる風”に「μ’s」と検索して画面をスワイプさせていた。そこで流れている曲も初めて聴くものばかりだったが、デンモク画面に表示されるμ’s楽曲たちにも「こんなにも知らない曲があるのか」とただ驚愕していた。どうやらアニメで披露されていた楽曲はμ’sのほんの一部だったらしく、あの頃はサブスクなんて言葉も浸透していなかったため、馬鹿正直に2期までのアニメを見ただけでラブライブを知った気になって、FinalLiveに飛び込んだ私は羅列された楽曲のほとんどが「はじめまして」の連続だった。図らずもF君とは長机を挟んで対面に座ってしまった為、会話でその場をやり過ごす事も出来ず、おもむろにパズドラを開いていた。今思うとマナー最悪の新参者なのだがここでは若気の至りと目を瞑っていただきたい。

あの時のレアガチャで引いたファイナルファンタジーコラボのスコールは、ラブライブを知った気になった自分と初対面のファン達に緊張して会話という会話すらも出来なかった2つの惨めさとのコンボが重なって、未だにフラッシュバックする記憶となっている。

コラボ実施期間:2016年3月21日~4月3日。


道すがら、Fの軍勢の一人にふと尋ねられた
「推しはどなたなんですか…?」という言葉。

それに私は恥ずかしげもなく「そういうのは特に決めてないんですけど…lily white(園田海未/星空凛/東條希)ですかね…」なんて答えた事も場違いも甚だしいのだが、あの頃の何も知らぬ青い私は馬鹿正直かつ何故か自慢げに答えていたのだ。それでもお相手はそこから話を広げくれて、「これが大人の余裕か…」と優しさに甘えながら、総武線に揺られて東京ドームの最寄り駅である水道橋駅へ向かうのだった。私はこの時、最低限のドレスコードすら携えて居ないことを徐々に実感し焦りを感じていた頃だろう。

ペンライトの輪。握りしめるデンモク。


LIVEの開幕と終幕。そして芽生える『いつか彼のようになれたら。』


いきなりぶった斬る。場面はLIVE終盤までブッ飛ぶ。

そんなnoteがあってもいいだろう。語れるほどの記憶は断片的なモノである。なにせ7年前の事象だ。覚えているのは水道橋駅前で「チケット譲ってください」のフリップを持ったラブライバーたち、長蛇の列のセブンイレブン…その程度。文字数を稼げる程の追憶はない。

FinalLIVE仕様の「セブン-イレブン 東京ドームシティミーツポート店」
(じゃがりこで描かれた「ラブライブ!」)


肝心のFinalLive本編の記憶は、輝夜の城で踊りたいのコールが揃わずF君が「違うんだよな〜」と憤慨していたこと、”ふたりハピネス””で「休憩タイムだね〜」なんて言い合って、少し肩の荷が降りたこと、”僕たちはひとつの光”で舞台装置の花が大きく咲き誇ったこと…それくらいのものだった。

『ライブってこんなにも楽しい…夢の場所なんだ』って。

一見その薄すぎる感想に拍子抜けした方もいるだろう。しかし勘違いしないでほしい。3時間超に及ぶライブの中でアニメしか見ていなかった在宅の高校生(筆者)が全くその場で気後れすることが無かったのだ。今もなお色褪せぬライブの思い出の数々が私を奇跡への可能性を信じさせてくれるそんな一夜だった。


何故そんな境地に辿り着けたのか――——。

それはF君のコールが完璧だったから

その横で休む暇なく叫び続けていた。ただそれだけ。私を同志と認めてくれて、共に盛り上がろうと道筋を照らし続けて居てくれたのだ。

彼の叫びを見様見真似するだけでファンを飛び級したかのようにラブライバーになれた。
「はじめまして」の楽曲郡に人見知りすることなく、辛うじて私の単騎の力でも追随出来たのは、直近でTSUTAYAでレンタルしたPSYCHIC FIREくらい。それなのにも関わらずF君のコールを輪唱する様な気持ちだけでその場の市民権を得られるくらいには声高らかに叫び続けられていた。

「あぁ…彼はそんなにも先を歩いていたんだな…。」


東京ドームという広い舞台で米粒大でしか見えないキャストたち、そしてLIVE初参加で免疫が無かったということもあり、そんな外側の浅い感想ばかりが思い出される。

その中でも今もなお鮮明に覚えている記憶が一つ存在していて、FinalLiveで披露された42曲で、鮮明に頭の中で描写されるF君の涙があった。

僕たちはひとつの光”が流れた頃には、F君はボロボロと涙を流していた。正確に言えば涙の量で僕光(僕たちはひとつの光)Cメロくらいのタイミングで私は彼の''異変''気づくことができた。その涙が嬉し涙か、悲し涙か、悔し涙か、もう今は分からないけれど

その時、私は「こんな涙を流しながら声援を送れるライブに出逢えたら」なんて漠然と思い始めていた。

その涙に目を奪われているのも束の間、いつの間にかのライブ終幕。会場の熱気は冷めやらぬまま少し俯瞰した私がそこにはいて、様々な後悔はあれど「このライブを見届けた事実が私を強くしてくれるのだろう。」と既に目線は未来に向かっていた。

私もいつか、全力でライブに挑めるように。


熱量そのまま撮影した東京ドーム(少しブレている)



そんな思いも束の間、5万人が会場のアナウンスにより徐々に退場を始めた。そこで退場間際、おもむろにひとつ斜め前に座っていた20代後半くらいの茶髪の男性が不自然に後ろを急な角度で振り返った。
しかしその意図を何故か一瞬で理解できた。「彼は、F君に何かコンタクトをとりたいのだ」と…

その予感はすぐに的中し、彼はF君に向かって、おもむろに口を開く。




『...…お兄さん。コール凄かったですね…!!』





ハッとさせられた。
現地に来ると、こんなやり取りも生まれるのか...。

確かに私はコールの(''コ''ですら無い)Cの字も知らないまま現地に赴いたにも関わらず、彼の横にいただけでファンを飛び級したかのようにライブに没入していた。
なんてことを思い出しながら、「この子!!私の中学時代の友人で~!!」なんて何故か私も少し誇らしげになりながら横でニヤニヤしていたけれど、余程彼の心を揺さぶる魂の叫びだったのだろうと合点がいく…。茶髪の彼が贈る言葉としての誇張は無く、そのままF君はどんな言葉を返すのか、その動向をただ私はジッっと見つめていた。

そこで、F君はその言葉にまず軽い会釈をした。
…「あざっす」くらいのものだ。

そんな賞賛をうけるなんて高校生では滅多にないからこそ、「会釈で済ませたか〜」なんて少し拍子抜けしてしまったが、礼儀は弁えているし、及第点だろうと思っていた…

そんな矢先にF君は少し照れ臭そうに、でもシームレスに会釈の顔をあげ……




『キャストが本気なのに、
俺らが(その熱意に)答えないのは失礼だと思うんで』




と笑みを溢しながら、啖呵を切った。


礼節を尊びながら、''啖呵を切った''という表現が適切だと思える程、おびただしい覇気を纏った言葉だった。

咄嗟にその言葉が出るという事は普段からその思いを抱えていたという訳だろう。私はF君がいたからこそ、その「本気」に少しは答えられたのだと信じたい。


その言葉に、ひとつ前の彼は気圧されながらも、間を埋めるように「最高のLIVEでしたね〜」なんてことを言っていたような気もするし、捏造された記憶かもしれない。でも返答なんてどうでもよくて。その言葉を間近で聞いた私はライブ以上の衝撃を受けながら…


その時、私は決断した。


いつかこんな素敵な機会がもしも巡らせてくれたのなら、「こんな言葉を誰かに返せたら」と、人生の大きな道標となった。

いつか私も推しを見つけて、日々追いかけて、いつか''終わりを迎えるその日''に魂を削り、ライブで涙を流し、同志と笑い合えるそんな日が来ればと強く思い立った。2016年3月31日。7年経った今もなおあの衝撃を超えるバースに出逢えぬままでいる。

でもあの言葉が憧れの礎として君臨し続けてくれたからこそ、歩みを止めずに歩き続けたのだろう。



後悔を原動力に、新章へのSTART:DASH!!。


在宅だろうと、曲を知らなかろうと、能天気にその場をやり過ごしていた自分が唯一、その涙とあの言葉だけには「悔しさ」を感じてそのやり取りがライブよりも鮮明に刻まれていた。
それが、悔しくて悔しくて、でもこれ以上μ’sは追うことは出来なくて。楽曲は聴き漁ったとしても、新しいライブは発表されない虚しさの中、私はキャストとして一目置いていた小泉花陽役の久保ユリカさんを追おうと決めた。キャラクターというよりも本人の赤裸々な性格や秘かに垣間見える野心だったり、その持ち前の朗らかさにシンパシーを感じて、彼女の活躍する超A&Gで放送された胃痛ラジオだったり、ソロアーティスト活動だったり…あの頃は「在宅」だった自分も高校を卒業し、”推し活”の視野も大きく広がった。科学技術館だったり、豊洲PITだったり、後悔の無いようにできうる限り、現地に足を運ぶようになった。

それでも何処か推しという感覚には距離があって、キラキラ眩しい景色を窓越しで眺めているような感覚が拭いきれずいた。それでも”いま”が楽しくて、二度と戻らない瞬間を謳歌して、なんとなく目標もなくイベントに踏み入る日々だった。


Final LIVEから3年後のKUBO YURIKA VIVID VIVID LIVE 。


その頃になって徐々に気づき始めたのは、ここまでの経験は思い出というより、一種の呪いの類であると言う事だった。
眩しいほどの憧れという光はその反面何倍もの大きな影を産む。それは今もなお体を蝕み、動かす、替えの効かないエネルギー源となっていた。さしずめドラゴンクエストの呪われた装備に近い感覚だろう。外したくても外せないし、教会はどこにも見つからない。

あの日の幻影と亡霊を追いかけ続け今ここまで辿り着いている。だからこそいつか誰かにこの思いを吐き出したかった。ほんの少しでも背負って欲しかった。そんな思いが詰め込まれた前日譚。

ここからは「今の私」の話へと続いていく。





「海乃るり」に出逢えた日の話。


「この道の果てに、あの涙を超えられる日あるのだと信じて」…と義務感なんて毛頭なくてただあの頃の「好き」に従って歩き出したセカンドライフ



その正解のない道を後悔と共に歩く日々の最中、今へと続く花を開かせたのは、彼女がMCを務める番組「アニゲーイレブン」であった。

アニゲー☆イレブンとは、ゲストを招いてトークするアニメ・ゲーム情報バラエティ番組。その初代MCを務めるのが何を隠そう久保ユリカさん。その後2018年4月に2代目MCのLynnさんへと引き継がれ、2018年9月3日放送分のゲストに(現在の推しである)海乃るりを含めた22/7の4人がゲストとして招集された。


初代MC:久保ユリカ(2015年10月~2018年3月)
2代目MC:Lynn(2018年4月〜2020年3月)



今となってはどんな言葉も後付けに過ぎない。」

「稲妻に打たれた」「天地がひっくり返った」なんて言葉もチープになってしまうくらい、適切な表現とは程遠い。海乃るりとの出会いは半ば正面衝突事故。
BS11の画面越しでも視界に入った瞬間、全身の細胞が躍り出した。FinalLiveの土壇場で、推しすら答えられなかった私が「この子の人生を見届けるために生を受けたのだ」と脳から全身へ流れ出すような感覚だった。

秋元康がプロデュースするアイドルなんて、テレビで見るだけの存在で総選挙なんてあくまで御伽話の類、人を人として見ておらず、人間を使い捨てで替えが効く存在だと思っている悪魔たちの所業。そんなことを思って曲だけは聴きながらも、敬遠していたけれど、本能には抗えなかった。

その後すぐさま血眼になって、彼女の素性を洗った…。

………………。



「…え?この子Twitterやってないんだ…。」
(海乃るりがTwitterを開始したのは2019年の2月)


ランダムリプ返企画でいただいた返信。
返信自体は定型文だとしてもLynnさんご本人に
この言葉が届いたこと自体がただ嬉しかった。






初めて参加した、推しがいるライブ。初めて推しに届いた「声」。


もちろん友人なんておらず撮った写真は他撮りの数枚のみ。


初めて参加した22/7のライブは2019年1月22日に開催された「22/7 定期公演ナナニジライブ#01」だった。22/7が2019年に1月から12月まで毎月キャパ300で行っていた定期ライブである。端的に言うとパフォーマンス精度やファンの練度と信仰心を高める下積みライブである。

誰1人周りに22/7知り合いはいなかったけれど、チケットを単番で申し込んだ。
その後、狭き門を貫いて、当選した幸運も然ることながら、整理番号を見るとまさかの最前列。「ビギナーズラックとはこの事か」なんて思いながらも、当日Mt.RAINIER HALL SHIBUYA PLEASURE PLEASURE(現SHIBUYA PLEASURE PLEASURE)に向かった。


ライブ当日。
下手側の最前に座って深く椅子に腰かけようとも、拍動はなり続ける。5万キャパライブの後に体感した座席とステージの近さは危機感を感じるほど近い。会場が暗くなり歓声が上がる。私はその日に買ったペンライトを握りしめてはいたけれど、あの頃なんてメンバーカラーなんてあやふやでずっと''それっぽい''色を振っていた。メンバーカラーはおろか、メンバーの名前も覚えきれておらず着の身着のままのライブ参戦だった。私を導いてくれるような存在はもちろん隣にはいなかったけれど、私には”推し”がいる。会いたい子に会いに来られた、ただそれだけで心の持ちようはあの人は大きく違った。

ライブ特有の音圧と音源にはない奇っ怪なファンの雄叫び(コール)と呪文(MIX)。まだ未完成で不揃いなダンスでありながらも魂を削るようなパフォーマンスに胸を打たれていた。最前席はキャストの汗すら鮮明に見えて、そして目を奪われたのは今の推しとなる存在…''海乃るりの輝き''だった。今思い返すとシンプルにグループで一番身長が高かったから、目立って見えたのかも知れないけれど、そのあどけない笑顔が、あの頃画面越しで完結していたエンターテイメントを飛び越えて、「アイドル」という存在がこの世に存在することを改めて実感した瞬間。

「アイドルも同じ世界に生きているんだ」と素直にそう思った。

後にも先にも''推し''はあの子だけで、あの魂を震わせられた感覚は幻じゃなかったのだと思う。そして最前席で参加出来たライブということでその初体験を最大限謳歌出来たのだろう。


🎙『終演後にメンバーによるお見送り会があります』

そう会場アナウンスをされても、アイドルライブにノウハウのない私は当たり前に公用語として交わされる「お見送り会」がなんの事なのか分からなかった。
てっきりメンバーがステージから捌けていく様子に「ありがとう〜」などと思い思いの言葉を雄叫びの様に叫ぶ演目かと思いきや、どうやら想定とは真逆で''ファンが会場から出ていく際に入口付近にメンバーが滞留し手を振ってくれる''という興行だった。
整列が始まった際、必死に頭を回して、自分の順番が来た。11人のメンバーが横並びのなか、私は推しの”区画”に狙いを定めて「アイドルのライブ!!初参加でした!!」と叫んだ…他のメンバーに受け取られる可能性もあったはずなのに、推しはそのキラキラした瞳で…『そうなんですか?!嬉しいです!!』とじっと見つめながら、年甲斐もなくピョンピョン飛び跳ねてくれた。推しの人生に初めて登場人物になれた。これが2019年1月27日が私の原体験だ。

「私は今日からこの子と共に生きるんだ…」
私の人生に漠然と散らばったピースが集い、その日1つの絵画となった。




初めて当事者になれた、推しの卒業ライブ。


5年間活動したグループを卒業する11月30日の
23:59に投稿したアイドル人生最後のツイート。


私が初めて参加したナナニジライブ#01の1,028日後、22/7メジャーデビュー4周年を祝う22/7 ANNIVERSARY LIVE2021が開催された。推しが声優アイドルとしてステージに立つ最後の晴れ舞台だった。そこで私は初めて当事者として迎えるファイナルライブを経験した。

私たちの幕引きは東京ドームではなく国際フォーラム ホールA。
「ありがとう」も「さよなら」も言えないマスク着用の声出し禁止ライブだったけれど、もとろん楽曲は全部網羅していて…コールだって声には出せない分、心の中で何度も唱え続けていた。開演前もパズドラをする時間なんてないほど、沢山のファンが話しかけてくれて…労いの言葉や感謝を伝えてくれた。「あぁ…ファイナルってこんな気持ちなんだな」。
あの頃はぐらかしていた推しも今なら「海乃るり」と胸を張って答えられたし、誰もが認めてくれていた。わざわざ推しを名乗る必要が無いくらいに周りは私と推しの紐付けは強いモノとなっていた。
LIVEは昼夜の2部制で、最後までFinalLiveの実感はなくて「また次のライブにはフラッとステージに立ってくれるているのではないか?」なんて微かに思いながら推しカラーの緑を3本持って振り続けていた。
人脈や運にも恵まれて、昼公演は前方列での参加。夜公演は3列目。最後のアイドル姿をその目に焼き付ける連番に誘われた座席でその連番者は、楽しい時も辛い時も涙を流した時も、いつも傍に居てくれた(こちらも)同い年の友人だった。
お互いしんみりするタイプでは無かったから、卒業ライブでもヘッドバンキングしたり汗と涙がゴチャゴチャになるほどライブを楽しんだ。
推し自身がアイドルファンということもあり『自分の好きなアイドルが舞台上で悲しむ姿は見たくない…故に舞台上では泣かないようにしている』というモットーを黎明期から掲げていたが、その日だけは大粒の涙を流しながらグループとの別れを惜しんでいた。

後にライブを総括するSHOWROOM(配信)では『最後は思いのままに泣こうと思って…泣いちゃいました』と照れくさそうに語っていた。
「そこも含め彼女らしいな…」なんて声優アイドル時代は、ずっと推しを好きなまま応援し続けられたと実感した。

これからどんな形でファンの道を絶たれようとも''海乃るりを推しきれた''この歴史は誰にも不可侵な事実としてフリーズドライされた。誰にもこの日々は今後一切傷つけられることなく年老いて火葬されるだろう。


話が拗れるので割愛していたが、
実は''推しも西木野真姫ちゃん推し。''(Aqoursは黒澤姉妹推し)
最終リハ終了報告画像は「SIMのオマージュではないか?」と
ファンの中では密かに話題になった。


これが私の第1章。



こうして今に至る。
FinalLIVEから7年。推しを見つけて5年。推しが、吉宮 瑠織(ヨシミヤ ルリ)に改名し2年。数多の人々が掴み損ねた記念すべき大台の上に立っている。推しを見つけた時には19歳だった私も今や24歳になって大晦日に誕生日を迎え25歳になる。

「人生の5分の1を推しと過ごしたのか…」

案外何が変わったわけでも無いし、積み重ねた気持ちもあまりない。
かと言ってまだまだ熱が冷めそうな予感もない。正確に言えば「冷めきることは無い」。全盛期から見たら新鮮さは失われてしまう。デジャヴも増えていく。それでも推しを思わない日はないし、「今日もどこかで彼女が笑ってくれていたら」と心の底から思う。
推しを追いかけるというのは、理想論だけじゃ決して道が開くことは無くて、1つ歯車ががズレてしまうだけで解脱していくファンを何人も見て来た。だからこそ、ただ初心を忘れずに自分の出来ることを惜しまず全力で地に足つけて一歩一歩踏み出していこうと思う。かっこいい自分じゃなくていい、周りに笑われたって、時に迷惑を掛けることだってあるかもしれないけれど、推しが許してくれた''保ち方''を信じて、時に後ろを振り返りながら''こっから''に思いを馳せて行こう。賢くなったのか愚かになったのか今はまだわからないけれど、今ここに立っている。それが覆しようのない正義である。生存者バイアスの成れの果てと言われたら「上等だ」とゴンフィンガーを掲げるだろう。



改めてあのFinalLIVEの怨念の様な始まりからよくここまで来られたなと我ながら思う。
決して順風満帆とは言えなかったし、美談だけで語るには溢れる位にも心は汚れてしまったかもしれない。沢山の縁に恵まれた分、沢山の悪意にも蝕まれた。当時、幼い私には抱えきれないほどの悪意の槍が私の心を貫いたけれど、今は抗体もつき始め、その槍をへし折り、投げ返せるくらいの心持ちではいられる。あの日あの言葉たちに屈していたらまた今とは違う人生を送っていただろう。

しかしこの道を突き詰めれば、なりふり構っていられる道楽ではないことくらい皆分かっているはずだ。結局は推しと自分でしかないのだ。

巡り巡る、ラブライブが再び繋いだ「奇跡」。

…ラブライブがあるから今の私がある。

だからFinalLiveを終えた後でも、ラブライバーの道を諦められなかった。
『''彼ら''の様になりたかった。』
その花を芽吹かせようとAqoursのデビューシングルを買ったり、虹ヶ咲やスーパースターのアニメを見たりした。人並みにコンテンツを謳歌出来た…。楽しめたけれど、あくまで外野の観客にしかなれなくて、推しを見つけられぬまま、ここまで来てしまった。居もしないイマジナリーファンの同調圧力に負けず自分の好きな推しを今も応援出来ているならなにも後悔はないけれど、ラブライブが新たな輝きを見せる度に少しだけ心が揺れ動く瞬間がある。

μ'sが偉大だったからこそ、心の根底にいつもラブライブがいた。それが濾過されないままで息苦しかった…そんな日々を過ごしていた。光に焼かれはしたものの僅かな残穢を帯びた呪いの日々は続いていた。


ミュージカル「スクールアイドルミュージカル」ロングPVより


そんなある日のことだった。

吉宮瑠織の活動の2年という短い期間で、5度の共演経験のある西葉瑞希(さいば みずき)が「ラブライブ スクールアイドルミュージカル」にて若槻ミスズ役で出演することが発表された。

僥倖という言葉もチープに感じるくらいの奇跡の縁。ラブライブに憧れを持つ推しを追いかけ続けた果てに、推しの共演者がスクールアイドルになったのだ。

諦めなければまたラブライブに会えた。
あの日奇跡を信じた物語を追いかけた果てに奇跡が舞い込んできた。



2023年8月6日。日曜日。

推しの誕生日の2日前。私はその日に初めての現地で「スクールアイドルミュージカル」観劇にありつけた。と言っても初公演である2022年9月の公演が大盛況だった故の再演でようやくのお目見えで前評判の高さから期待値も跳ね上がっていた。

そしてその肝心の感想と言うものも、そんな期待値をやすやすと超えてくる「ラブライブ感」が宿る舞台であり、メディアミックスミュージカル最高峰という器に相応しい絶景が広がっていた。
新進気鋭の若手女優たちと、それを支える華々しい経歴を持った理事長役の女優たち、冒頭の1曲目から涙が止まらず、そのままの熱量で青年館ホールを後にした。そこに呪いは介在せず、私の羽になったかのように背中をそっと軽くしてくれた。

「アイドルはいつだって''夢''を見せてくれる。」

舞台のクライマックスの''スペシャルカーテンコールパート''ではサイリウムの掲揚が許されており、私はそこで22/7定期公演(下積み)時代のブレードと2017年当時から大事にしまい込んでいたμ's Final Liveのブレードを一心不乱に振り続けた。ブレードのロゴが色褪せていたけれど、それに相反するようにあの頃の熱量は色褪せることなくブレードと共に眠っていた。

「またここに戻ってくるなんてなぁ…。」

7年越しに振る藍色に輝く2本のブレードは、電池の重さだけじゃない思いと歴史がその重さに宿っていた気がした。

あの日の呪いがあったからこそ私は、
7年越しに1日限りで「ラブライバー」になれた。


その思いは西葉瑞希ちゃん…若槻ミスズちゃんに届いたかな。


でも届かなくったっていいんだ。

届かないからまた歩んでいける。
だってまた諦めなければこうして会えるから。

私さえこの気持ちを覚えていれば。信じていればいつかその日が来る。 



『きみにだけ見ていてほしい
この瞬間にしか出会えない奇跡。』

きらりひらり舞う桜/スクールアイドルミュージカル より



''推し''が私を一夜だけラブライバーにしてくれた日。




((その後、若槻ミスズ役の西葉瑞希ちゃんに、FinalLiveで抱えた思いとスクールアイドルミュージカルに導かれた奇跡をデジタル上ではあるが、お話出来る機会があった。それを受けたリアクションはとても素朴なもので、『え~泣ける~その話…!!めっちゃいい話じゃん!!(そんな話するなんて)珍し!!』なんて言われたりもした。))

こんな数奇な日々を巡る、一旦のゴールを担ってくれたキャストにここまでの出会いが届いたというのなら、それは何たる幸せか。


この成功体験の連続が、ただ搾取されるたげである人間に一縷の希望を託してしまう。だからこそまた、ユメを見て、未来を信じ、チケットを掴み、突き進んでしまうのだろう。

これからもまだまだ幸せの色を塗り重ねて行こう。

誰に笑われても、笑い変えせるような…いやむしろ共に笑えるようなそんな人間になれたらと日々私は思うのだ。




【あとがき】後日談というより今回のオチ



2023年11月14日 火曜日。私はその日、再び東京ドームにいた。


あの日以来、7年ぶり2度目の東京ドーム。


そこで開催されていたLIVEは、兄のTakaが率いるONE OK ROCK(ワンオク)と弟のHiroが率いるMY FIRST STORY(マイファス)の2組が5.5万人の前で繰り広げる配信無し一夜限りの兄弟対決『VS(バーサス)』だ。

私はその5回の抽選に落ちた果てにやっとの思いで手に入れたスタンド見切れ席のチケットを握って現地に赴いた。マイファスは5年、ワンオクは10年と人生を共にした私は多くの屍の上に掴み取ったチケットに現実味がないまま座席に座った。横には22/7時代の友人を引き連れて。それはもちろん私側から話を持ちかけた末での連番だった。

あの日のラブライブで辿り着いた東京ドームとは立場が逆転し、私が友人を導く側になる日が来たのだ。

もう一本のnoteが書けてしまうので感想は割愛するが、18:00に開演してから21:00の終演過ぎまで、続いた一夜限りの祭典は最高潮のボルテージのまま幕を閉じた。「この日のために息を吸って吐いていた」と思えた瞬間だ。


数日後、22/7時代に繋がった旧友の経営する居酒屋で連番した友人と盃をかわした際に「最高に楽しかった」と照れくささを隠すようにやけくそ気味に鼓舞された。…その言葉に酔いしれ飲んだ日本酒がとても美味しかった。(記憶をトばすほど飲んだ。会計が割り勘で1万を超えていた。)

唯一東京ドームで気がかりだったのが、友人が「ライブを楽しんでくれていた」かどうかだった。
追っていた歴や経験、そして楽曲への知識で熱量に差はどうしようもなく生まれてしまう。だから誘った手前「こんな風にも楽しめるんだよ」と半ば教示するような気持ちで肩を組み合った。だからこそ彼もあの景色を最大限謳歌してくれたのが嬉しくて嬉しくて…。22/7で出会った友人と中学生から大好きだったバンドのライブに行けた事は永遠に語り継ぐ思い出になると実感した。

そしてその時気付かされたのだ。
あの日FinalLIVEで感じた「LIVEを導いてくれた」感触は、決して導いた果てに生まれた結果ではなく、心の底から楽しむファンの背中を見せてくれていただけで、ただ本能のまま自分を仲間と認めてくれて共に楽しもうとしてくれていたのだろう。Final LIVEの時も横でただ泣いてる彼を見つめてた私は、同じ東京ドームという地で嗚咽するほど泣いていた。

こうして縁は回っていく。
一人の推しを信じ抜いた果てに、ラブライブにも東京ドームにもまた縁を手繰り寄せられる奇跡があったのだ。

7年前高校生だった少年よ。きっとそのまま勉強しないまま大人になる。でもだからこそ、今の自分だからこそ、''推し''に出会えて最高の景色を、本名も知らなかった友人と見届ける。あの時は母親に頼んでいたチケット代も…自分の財布からお金を出すようになって見える果てしない可能性がある。アンタは恵まれてるよ。決して牢獄になんか居なくて、ずっと楽園にいられたんだ。


その努力が実るまで進み続ければ、それぞれにしか見えない絶景ががある。生き抜いたからこそ得られる報酬がある。そんな思いを馬鹿正直に掲げて推しを応援して5年。私はこれからも私の人生を持って、証明していきたい。いつか終わる日に心の底から笑顔で終われるように。

誰かに「憧れ」という「呪い」を背負わせられるようなファンになる為に。


中学時代にONE OK ROCKを教えてくれた
友人にLIVE後に送ったお礼のLINE。