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宮崎駿の遺言状!? ~眞人の旅の"分かりにくさ"を解き明かす~

金銭、名誉、名声、地位……
実力、伴侶、仲間、趣味……
この世のすべてを手にした人間であっても、
老いて最後に求めるものは「これか」と思わされる、何とも感慨深い映画だった。

巷の評判とは異なり、自分はこの映画を「難解だ」「分からない」とは思わない。
一方で「(表現として)分かりにく過ぎるし、分からせるつもりもない」とも感じた。

答え合わせのしようがない映画ではあるが、私個人の妄想として解釈を語っていきたい。


■この映画、分かりにく過ぎないか…!?

物語は大きく2パート「前半、現実世界での暮らし」「後半、異世界での冒険」に分かれる。

筋書きとしては前半パートで主人公の心の問題(動機や願い)が描かれ、
物語半ばでキッカケがあり、後半パートでの冒険を経て心の問題の解消にいたる。
ともすれば退屈にもなりかねないほど、スタンダードな物語構造から構成されている。

主人公眞人の心の問題とは火事によって失われた「母の不在」であり、
容姿だけは母とそっくりな義母との複雑な距離感、馴染めない新しい土地、愛はあるが理解は薄い父、
といった外部環境が、その心の問題の自然な解消を阻んでいる。

「家庭に問題のある子供が、周囲の環境にも恵まれず、ここではない世界を旅して心の成長を経て戻ってくる」
まっさきにミヒャエル・エンデの『はてしない物語(The NeverEnding Story)』が浮かぶようなストーリーラインだが、
昨今の異世界転生モノを紐解くまでもなく、フィクションの世界ではお馴染みの内容のはずである。

ではなぜ、こんなにも"分かりにくい"のか?

映画の尺の問題も大いにあると思われるが、煎じ詰めれば大きく2つ
各モチーフの「象徴性の説明不足」と「象徴性の重ね合わせ(混線)」にあるのではないか。
まだまだ分かりにくいが、丁寧に見ていきたい。

■分かりにくさは"説明不足"と"重ね合わせ(混線)"

「象徴性の説明不足」これはもうそのまんまである。
アオサギもインコもペリカンも、何のメタファーなのか解釈の取っ掛かりが少なすぎる。
そして冒険の舞台となるあの異世界も、いったい何なのか究極的には最後まで明示されることがない。

説明不足のまま始まって、説明不足のまま進み、説明不足のまま終わる。
これでは受け手の側で何らかの"解釈"を用意しなければ、感想はシンプルに「よく分からなかった」となるに決まっている。

それじゃあ"解釈"とやらで何とか本作を読み解こうとするとして、すると今度は次の問題が立ちはだかってくる。
それが「象徴性の重ね合わせ(混線)」である。
どういうことか。
つまりは「次元の異なるメタファーが、1つのモチーフや1つのストーリーに複数同時に託されてしまっている」ということである。

具体的に行こう。
シンプルに結論を言ってしまえば、この作品の物語は
「母を失った少年の心の回復の物語」であると同時に「後継者を決められずにいるスタジオジブリ/宮崎駿の次世代に託す継承の物語」なのだと思う。
この"ベタ"(母の死と新たな人生を受け入れて生きていく)と"メタ"(ジブリの遺志を次世代に託したい)、2つのストーリーラインが、
1つの筋書きのなかで混ぜこぜになって語られているから、こんなにもややこしいことになっているのである。

■スタジオジブリの後継者?

ここでいきなり登場した「スタジオジブリの後継者」問題であるが、これはメタファーをそう当てはめてしっくりくることを見ればいい。

まず異世界の主を司る"大叔父"が非常に"宮崎駿"っぽいことは、観た人なら納得いただけると思う。
そしてあの異世界は、生まれる前の子供たちや過去の時間が混ざり合った「彼岸」「異界」でもあるが、同時に創造主が作る"積み木"によっても左右される「想像的/創造的な世界」でもある。

皆さんはフィクションの世界を「我々の生きている世界とは交わらないから知りようのない、次元の向こうには実在している異世界かもしれない」と考えたことはないだろうか。
この想像力に立ったとき、フィクションこと「想像の中の世界」は、同じく我々には行き着くことのできない「生まれる前/死後の世界」や「過去/未来の世界」と混ぜこぜになって、次元の向こうに実在していることになる。

『君たちはどう生きるか』に描かれたあの異世界は、要するにそういうこと――次元の向こう側をすべて混ぜ合わせた世界――なのだろうと思う。

そして、そこでは前述の2つの物語が1つのストーリーラインの中で同時に語られているのである。
その1つめは、大叔父が"帰ってこれなかった"ように、現実の問題を忌み嫌って想像の中の世界に引きこもってしまおうとする誘惑に抗う、母を失った少年の成長をめぐる物語。
そして2つめが、創造と空想の世界を司る神のごとき立場にあるが、死を前にして後継者問題に悩み苦しむ老人の継承をめぐる物語。

■鳥たちとメタファー

アオサギがなぜアオサギなのか、ペリカンがなぜペリカンなのか、インコがなぜインコなのか?
この辺りの象徴性を考えるとき、後者の「スタジオジブリと宮崎駿の物語」はかなり通りの良い解釈を適用することができる。

"鳥"のモチーフが自由にはばたく「想像力の翼」、青い鳥の「夢や理想(悪友/仲間との協調)」、何でも喰らうペリカンの「悪食と生命力」、口真似がやかましいインコの「大衆性(模倣性)と欲望」……
連想ゲーム程度の話ではあるが「ジブリと創作(想像力および商業経済)の物語」として見ると非常に分かりやすい。

インコの王を見てまず連想したのは「スタジオジブリのブランドを商業的に食い荒らそうとする商業主義のビジネスマン」だった。
彼はあの世界の"支配権"を欲しているのであり、大衆の支持を得てはいても、"積み木"に象徴される創作の神髄などカケラも理解していない。
大家となった宮崎駿監督の周囲にあって、あの種の手合いが近づいてきていて鬱陶しく感じるのは想像に難くない話である。

アオサギと主人公眞人との関わりは、個人的にも面白いと感じた描き方だった。

彼は最初、眞人の心のなかにある「オカアサン」を欲する気持ちを言い当て、そして煽る。
当初はそうした主人公の内なる思いを代弁する"シャドウ"なのかと思いきや、正体を暴かれて後は狂言回しとなり、そして油断ならない敵でもあり、ともに異世界を旅する水先案内人でもあり……旅を経た最後には一緒に未来へと進みゆく"友人"の立場になる。

友人というものをどう考えるかは人によってそれぞれだと思うが、最初から最後まで仲良しこよしの運命共同体というよりも
本人の望みを本人以上に言い当てて煽り合ったり、利害相反する部分で協力がいびつな形になったりしつつも、最後には協調してともに進む一連の描き方。
あの"他者"の距離感をそう呼んでいたことは何とも興味深かった。

■宮崎駿の遺言状

無制限の欲望と想像が羽ばたき、心に喪失を抱えた少年が迷い込み、全てを司る老人が後継者を求めて待つ、非現実の異世界の物語。

作り手の実人生を作品の解釈にどこまで当てはめていいのかは悩ましいことではあるが、あまりにも宮崎駿であり、あまりにもスタジオジブリの後継者問題である。朗

最期に大叔父は自分の血筋に後継者を求め(吾朗!?)、ともあれ若者に「自分自身の新たな"積み木"」を打ち立てることを託して去ってゆく。

主人公「眞人」は特定の人物を指すものではなく、広く次世代の子供たちに向けて……ということであろうとは思うが、
宮崎駿監督とスタジオジブリを取り巻く環境がダイレクトに作品世界に響き、本筋の物語と混じり合いすぎている。

この作品の"分かりにくさ"をベタ・メタ2つの物語の混線として読み解くとき。
本作は少年眞人の成長の物語であると同時に、自らの遺志を継ぐ者を求める宮崎駿監督の"遺言状"にも見えてこないだろうか。


※ このnoteは『モノガタリのガッコウ』というwebラジオの運営が書いたものです。
7/21(金)から3週にわたって、より詳細に語り尽くしていきますので、他タイトルの回も含めてこちらのリンクからどうぞ。

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