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【千葉県 いすみ市】波を彫らせたら日本一 “波の伊八”の謎に迫る

南総の欄間彫刻師伊八は5人いる

そもそも伊八とは一体何者なのでしょう?
伊八は、鴨川市打墨を本拠地として、5代、約200年に渡り、「伊八」と称して彫刻師を生業とした名工の家柄です。初代「伊八」こと武志伊八郎信由(俗名 武石伊八)は、宝暦元(1751)年に武志家に生まれました。幼少の頃より手先が器用であった信由は、左甚五郎の流れを汲む島村流の島村丈右衛門貞亮の弟子となり技術を磨いたといわれています。
その後、信由の子、武志伊八郎信常(俗名 武石万右衛門)が2代目伊八となります。3代目伊八の武志伊八郎信美(俗名不明)は、幕末から明治維新を経る日本の変動期に活躍しました。続く4代目伊八の武志信明(俗名 高石仙蔵)は、養子として武志家に入籍し3代目伊八である信美の二女と結婚しています。5代目伊八は信明の子である高石信月(俗名 高石武一郎)が継ぎ、昭和8(1934)年に東京都本郷駒込に移転。信月に子はなく、伊八の名を継ぐ宮彫師の家系は5代目で途絶えています。

伊八波upトリミング

<<↑↑伊八の代名詞ともいえる行元寺客殿欄間を飾る「波に宝珠」↑↑ 伊八の波は、あまりにうまく、関西の彫師たちから「関東に行ったら波を彫るな」と怖れられていたという。>>

房総の荒波と、解明されていない北斎との交流

5代続く伊八の中で「波の伊八」と呼ばれているのは、躍動感のある波と龍の彫刻を得意とした初代伊八です。行元寺(ぎょうがんじ)と飯縄寺(いづなでら)では、初代伊八の作品が存分に楽しめます。
飯縄寺の本堂は、伊八が寛政8(1796)年から文化3(1806)年の10年間をかけて総合的にプロデュースしたもの。行元寺の客殿には、伊八の最高傑作といわれる「波に宝珠」を含む欄間彫刻5面があります。伊八の波は外房ならではの雄々しい波で、動物が牙をむき出して迫ってくるような迫力です。
ところで、伊八の波を見て、葛飾北斎の名作「神奈川沖浪裏」を思い出す方も多いのではないでしょうか。真相は解明されていませんが、北斎の作品よりも20年以上前に制作された伊八の波が、北斎に何らかの影響を与えたことは間違いないようです。   
「神奈川沖浪裏」は、ゴッホやクローデルに少なからぬ影響を与えています。もし北斎が伊八に触発されたのだとしたら、伊八がヨーロッパの芸術にまで影響を与えたことにもなるでしょう。そんな思いで眺める伊八の欄間彫刻はまた格別です。

伊八天狗upトリミング

<<↑↑飯縄寺(いづなでら)の欄間↑↑ 伊八壮年期の最高傑作のひとつ、本堂結界欄間の「天狗と牛若丸」。源義経が天狗にいわれ、京都から奥州に向かう途中に訪ねたとうい伝説が残る寺。「天狗と牛若丸」の上部には北斎の師匠でもある堤等琳が描いた天井画「龍」があり、伊八と北斎の縁を感じる。>>

伊八寺upトリミング

<<↑↑行元寺(ぎょうがんじ)の客殿↑↑ 行元寺は、嘉祥2(849)年開山。享保20(1735)年に建立された寄棟造りの客殿は歴史と文化の宝庫。伊八作の欄間の下にあるのは、堤等琳の弟子で北斎の兄弟弟子ともいえる等随が描いた「土岐の鷹」があり、ここにも伊八と北斎の謎を説く鍵がある。>>

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