冒険家(ISFP)だったので新卒半年で仕事辞めてみた

 新卒で入社した営業の仕事を半年で辞める。それも、地元から移住した矢先に辞める。
 理由は月並みで簡単だ。人に迷惑をかけ続けることに耐えられなくなったからだ。

 元来、丁寧に人と接することは好きだった。それが相手にとっても喜びになるならば、お互いどんなに幸せなことかと思い、この仕事を選んだ。

 しかし、力不足の私では、一部の人を幸せにするために多くの人の時間を奪うこととなってしまった。商談を起こすための仕事ではあるが、その過程で、決して商談が起こり得ない、すなわちニーズが全くない相手にも話かけ、その時間を頂戴しなければならない。

 スキルのある人であれば、どのような相手であったとしても、相手にとって価値がある、質の高い情報と時間を提供することができるだろう。

 しかし、一向に控えめな私には、ニーズがなければ商談の起こらないYES/NO営業しかできなかった。それがNOである相手にとって、最も価値のない時間になることを分かっていながら。

 営業であれば無論、数字目標を日々追うことになる。しかし、自分の数字を上げるために人へ相談すること、人に電話をかけることへの抵抗感を払拭することはできなかった。

 すなわち、私には自分の目的を果たすための手段として、他人の力を借りることができなかった。自分のために人を利用する行為がどんなに愚かであるかを、知りすぎるほどに理解していたからだ。

 真に困っている人のことを思えば、ニーズのない相手の時間を頂戴することは仕方のない犠牲と捉えられるはずだ。

 私の矮小な保身の心は、そのように解釈を更新することを拒んだ。結局、私は単に、言われたことを言われた通りにすらできないという、社会不適合な性質によって辞することとなったのだ。

 指示されたことその通りに解釈し、営業の数をこなして数字を上げることだけを考えれば、相手の時間を奪う問題に目を向ける必要もなく、辞める結果にもならなかっただろう。

 自分の考えに固執してしまう性質は、社会人としての生活に最も影を落としうる。価値観を一新する機会を失い、学びの機会を失い、何も知らない自分が残るのみだ。

 しかし、私はその自分を受け入れねばならない。何にも変え難いこの私が活かせる場所を探すほかに、活路はない。


 仕事の不適応に悩んでいた頃、私用のメールボックスには、頻繁に16personalitiesからの通知が届いていた。新卒の学生が半年勤務し、自らの状況に悩んでいることを見越して現れたかのようなそのメールは、私が元来もつ性質に立ち返り、それの活かし方を考えるための足がかりに他ならなかった。

 私はISFPの冒険家だ。それも生粋の冒険家だ。これ以外に説明のしようがないと確信するほど、私はその診断結果に納得することとなった。

 思い返せば、就活をしていた頃の診断結果も同様に冒険家であった。私は冒険家に由来する内向性と対人能力の不足を自覚せずに営業の職を選んでしまったのだ。あまりにもミスマッチという他ない。会社に対しても申し訳ない気持ちが溢れんばかりに湧いてくる。

 業務においてもPDCAサイクルを回せないことが目下の課題であった。業務上に生じる課題は明白であった。しかし、それを改善する能力に欠けていた。行動を改善できない私を見る周囲の視線が鋭かった。

 だが、これも冒険家の特徴であったのだ。私は人間をあるがままに捉える。ある人の性質を、定型化された概念に当てはめて論じる事を嫌う。換言すると、私は「キャラ」という言葉が嫌いである。

 私の性質は業務において明確に損害を与えるものであったが、それはこの仕事に身を置いている場合にのみ生じるものだ。

 私という人間は、私の人生においては完全だ。私の性質が損害になる環境であれば、無論それは私が変わるか、私がその環境から去るかを選ばなくてはならない。

 此度は後者の結果となったが、環境によっては必ずしもそうなると限らないだろう。私の性質をそのままに活かせる環境は存在するはずだ。大学生活での評価がそうであったように。私が私らしくいられる場所であれば、自ずとPDCAサイクルも回される事だろう。

 ここまで、つらつらと私的な近況について記述した。以下からは、本稿の目的と今後の展望について記述したい。

 本稿は、冒険家の性質を煮詰めて水分を飛ばし、固形となり人の形に成形され、自我を持って動き出した私の私的な日記として、日々、取り留めもなく心に浮かんだ事柄を記す備忘録としたい。

 私はよく、過去の感情について忘れることがある。気の持ちようによっては、以前できなかったことが今日はできるかもしれないと、誤った判断を下すことがある。

 あるいは、過去に感じていた感情を忘れ、いまひとたびの感情にのみ従って判断を下すことがある。過去の思考を記録することで、自らがいかような人間であるかをいつでも立ち返ることができ、また一時の感情に従って判断を下す事を回避することができる。

 本稿は極めて私的であり、他人からすればまるで価値のない産物だ。

 しかし、わずかに存在しうる私に似た境遇の者や、社会に不適合を感じる者、冒険家の同志、対岸の火事に喘ぐ人間を鑑賞したい順風満帆な者、そういった方々に少しでもユーモアを提供する文章となれば、本望である。

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