本と末15 道と無形

本末の話もそろそろ終わりに近づいた。そろそろまとめなのだがその前に少しわき道にそれる。中国思想における「無形」の考え方。

中国思想には道は一定の形を持たないとする思想がある。道は無形である。そして道を体現した聖人君子もやはり無形の思想を持ち一定の形を持たないとする。

『論語』為政篇に次の言葉がある。

書下し文
子曰く、君子器ならず。
現代語訳
孔子が仰った。君子は一定の形を持たない。


器は食器である。一定の形を持つ。しかし君子は無形である。だから器ではない。

『老子』第八章に次の言葉がある。

書下し文
上善は水の如し。道に近し。
現代語訳
最上の善は水のようだ。水は道に近い。


老子が水をほめているのは恐らく水が一定の形を持たない点を含んでいると思われる。新釈漢文大系では第八章に「易性篇」という題名がついている。「易性」とは形が変わる性質という意味。誰がこの題名を付けたかは私は知らないが適切な題名だと思う。

「君子器ならず」「上善は水の如し」を例をとって説明する。

ソフトウェア開発会社があるとする。仕事がたくさんあるが開発スタッフであるプログラマーが足りないとする。この場合スタッフが足りないのがこの会社のボトルネックである。スタッフを補充しないといけない。逆に仕事が足りず、スタッフが余っているとする。すると仕事が足りないのがボトルネックであり、仕事をもらってこなければならない。

分かりやすさを優先するために非常に単純化し内容を平板化して言うと、会社の足りないところを柔軟に補える人が「君子器ならず」であり「上善は水の如し」である。仕事が足りないときに仕事を持ってきて、スタッフが足りないときにスタッフを補充する人。

それに対し一定の形を持つ「器」の人というのは仕事を持ってくる事しかできない人であり、スタッフをつれてくることしかできない人である。仕事が余っていても仕事を持ってくることしかできないのでどんどん仕事を持ってき続ける。スタッフが余っていてもどんどんスタッフをつれてくる。ものすごく平板に書くとこうなる。

老子は道を「無状の状」=「形の無い形」と呼び、「大象は形なし」=「大いなる形には形がない」と述べている。天地の造化は一定の形を持たないというのである。

『老子』第一章に次の有名な言葉がある。

書下し文
道の道とすべきは常なる道に非ず。
現代語訳
言葉や行動ではっきりと示すことのできる道は常に当てはまる道ではない。


言葉や行動ではっきりと示せる内容は有形である。だから正しい場合もあるが常に正しいとは限らない。常に当てはまる道は無形であると述べている。

『老子』第二十三章に次の言葉がある。

書下し文
道に従事する者は道に同ず。
現代語訳
道に従う者は道と一体化する。


聖人や君子は道を体現する。道は無形であるから聖人の思想も無形である。

『孟子』離婁章句下に次の言葉がある。

書下し文
徐子曰く、仲尼しばしば水を称して曰く、水なるかな水なるかなと。何をか水に取れる。孟子曰く、源ある水はこんこんとして昼夜をおかず、穴を盈たして後に進み、四海に至る。
現代語訳
徐子が尋ねた。「孔子はしばしば水をたたえて「水だ水だ」と言いました。水にどのような良さがあるのですか?」孟子が仰った。「源のある水はこんこんと湧き出て昼も夜も休みなく流れ、穴があればそれを盈たして進んでいき大海に至るからだ。」


源がある川は根本を備えておりどんどんあふれてくる。水源が根本である。根本たる徳のある君子と同じだと言う。徳ある君子からは善いことがどんどんあふれてくる。そして根本から末端に至る物事の流れは自然な力が働く自然な流れである。川の水が上から下にどんどんと流れていく様子も自然な力が働く自然な流れであり、両者は似ている。さらに昼も夜も休まないのが君子が常に努力を惜しまないのに似ている。そして穴があればそれを盈たして進む。

「穴を盈たして進む」というのは解説がいる。無形の水が君子である。水が流れていく地形がその君子がおかれた時代状況である。君子も生まれる時代は選べない。そして君子はそのおかれた時代状況に合わせて柔軟に問題を解決していく。それは水が地形に合わせて形を変えながら進んでいくのに似ている。穴がその時代特有の問題点であり、水は穴を盈たして進む。君子がその時代の問題を柔軟に解決しながら進んでいくのに似ている。

そして最後に「四海に至る」とあり天下に泰平をもたらすという意味だろう。

もちろんそこまで完全に無形で柔軟な思想を持つ人物はいない。あくまで理想を述べているに過ぎない。しかし理想を述べたほうが単純化され分かりやすい。それで思想はこういう言い方をする。実際の歴史では無形の人間はいないが無形に近い人は時々存在する。

『三国志』劉表伝引注『傅子』に次の韓嵩の言葉がある。

書下し文
聖は達節し、次の者は守節す。嵩は守節する者なり。
現代語訳
聖人は時代に合わせて柔軟に対応し、その次の人物は自分の信念を貫きます。私は自分の信念を貫く者です。


もちろん「時代に合わせて柔軟に対応する」とは言っても風見鶏のような悪い意味での臨機応変ではなく、自分の信念を貫いて且つ時代に合わせて柔軟に対応するという非常に難しいことができるのが聖人だと言っている。それは我々凡人には無理。我々は自分の信念を貫くのを目指す。

無形の思想を以って天下を治めるのは聖人君子だが戦争でも中国思想は無形を重んじる。『孫子』虚実篇に次の言葉がある。

書下し文
兵を形するの極は無形に至る。無形なれば則ち深間も窺う能わず、智者も謀る能わず。故にその戦い勝つに再びせずして形を無窮に応ず。
現代語訳
軍勢の形をとる極致は無形になる。無形であれば深く潜入した敵の間者もこちらの作戦を窺うことができず、敵の智者も対策を立てられない。だから戦いでは同じ勝ち方を繰り返したりせず、敵の形に応じて窮まりが無い。


もちろんこれは理想を述べており完全に無形になり変幻自在に無窮に応じるというのはできるものではない。 同じく虚実篇に次の言葉がある。

書下し文
攻めて必ず取るはその守らざるを攻めればなり。守りて必ず固きはその攻めざるを守ればなり。故に善く攻める者は、敵その守る所を知らず。善く守る者は、敵その攻める所を知らず。微なるかな、微なるかな。無形に至る。神なるかな神なるかな。無声に至る。故に善く敵の司命を為す。
現代語訳
敵を攻撃し敵の拠点を奪えるのは敵が守らないところを攻めるからである。味方が守備して固く守り通すのは敵の攻撃しないところを守るからである。攻撃に巧みな者には、敵はどこを守っていいか分からない。守備に巧みな者には、敵はどこを攻撃していいか分からない。微妙、微妙、最高の形は無形になる。神秘、神秘、最高の音は無声になる。それにより敵の運命の主宰者になれる。


最高の形は無形になると指摘している。水は無形である。孫子は水にも言及している。同じく虚実篇から引用する。

書下し文
夫れ兵の形は水に象る。水の形は高きを避けて低きに赴き、兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝ちを制す。故に兵は常勢無く、水は常形無し。能く敵に因りて変化し、而して勝ちを取る者、之を神と言う。
現代語訳
軍の形は水の形のようである。水は高い所を避けて低いところに流れ、兵は敵の充実したところを避けて隙のある虚を攻撃する。水は地形に応じて形を変えて流れるが、兵は敵の状況に応じて形を変えて勝利する。軍には決まった勢いがなく、水には決まった形がない。敵に応じて変化しそして勝ちを得る者これを神妙と言う。


水は岩などの充実した「実」を避けて、岩の間の空間である「虚」に流れていく。兵も同じだという。水は地形に応じて形を変えて流れていく。軍も敵の実情に合わせて形を変えて勝利する。

さらに『孫子』虚実篇から引用する。

書下し文
形に因りて勝を衆に置く。衆知る能わず。人皆我が勝つ所以の形を知りて、吾が勝を制する所以の形を知る無し。
現代語訳
敵の形に従って変化し勝利し、多くの人たちがその勝ち方を見る。しかし人々はなぜ勝ったか知ることができない。人はみな私が勝った方法である有形の戦術を知ることはできるが、その勝利の元となる無形の思想を知ることはできない。


優れた戦術家は元々色々な状況に対応できる無形の思想を持っている。そして敵の状況などに応じて無形の思想が有形の形となって勝利する。有形の勝った方法は知ることができる。どのように軍を動かしどこを攻撃しどこを守備したかなど。しかしその有形の戦術のもとになる無形の思想は知ることができない。

『荀子』天論篇に次の言葉がある。

書下し文
皆その以て成る所を知るもその無形を知る無し。夫れ是を天功と謂う。
現代語訳
みなその具体的な結果を知るがその無形の思想を知ることができない。これを天の働きという。


孔明を例にとる。孔明には元々色々な時代状況に対応できる無形の思想がある。しかし生まれた時代や地域で与えられた状況は特定の状況であり有形である。その有形の状況に無形の孔明の思想が対応すると有形の事績が残る。水は無形だが水が流れる地形は有形である。水は有形の地形に合わせて流れていくので水の流れた迹は有形となる。それと同じ。

孔明の有形の事績は誰にでも追えるが、孔明の無形の思想を捉えるのは必ずしも簡単ではない。孔明を理解するにはその有形の事績から遡って無形の思想を捉えないといけない。孔明のような天才と言えど何もないところからは思想はつくれない。彼もそれ以前の中国の思想から学んでいるのは明らかである。孔明を知るには中国思想を知る必要がある。

孔明については色んなところで少しづつ書いているがまとめて書いていないのでそのうち書いて楽天koboあたりで出版しようかと思う。

蔡沈『夢奠記』に次の言葉がある。

書下し文
天地は万物を生み、聖人は万事に応ず。


聖人がすべての物事に対応できるのは無形だからである。

無形について書いてきたが実際の仕事で無形の応ずるというのは難しい。小さい規模であればできる場合もあるが多くの場合は不可能である。我々は万事に応じる聖人ではない。ではどうすればいいか。一つの方法が私がずっと述べている本末の流れを考える方法である。

『大学』から再度引用する。

書下し文
物に本末あり。事に終始あり。先後するところを知れば、すなわち道に近し。
現代語訳
物には根本と末端があり、事柄には始めと終わりがある。どれが先でどれが後かを知れば、道を知るに近い。


「道を知る」というのは無形に応じるということである。無形の応じられればどんな問題も柔軟に解決できる。しかしそれは凡人には難しい。しかし本末を知るのは凡人でもできる場合が多い。どれが先でどれが後か、どれが本でどれが末か、それを知ればそれなりに色んな問題に対応できる。であるから「道を知るに近い」というのである。

本末の流れを確認しどこがボトルネックになっているかどこが足りていないかを考え、ボトルネックを補えばそれなりに問題は解決する。

劉備の生涯で「人徳」→「人材」→「土地」→「財産」→「大業」の本末の連鎖はすでに解説した。劉備は「人徳」を備えていたが、次の「人材」のステップにたどり着かなかった。誰が優れた人がいて、「人材の段階で滞っています。これがボトルネックですよ。」と教えてあげればもっと違う結果になったろう。

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