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他人 〜妄想から遠さへ

 他人の話をよく聞きなさい、と言われる。他人の話を全然聞かないと、人は、自分の頭の中だけで相手の像を勝手に妄想する。先の物言いは、それを戒めている。相手は、お前が勝手に扱えるようなものではない、と。
 とはいえ、相手に向かうのはそう簡単なことではない。人は放っておくと妄想モードになる。だから、冒頭のように、誰かが、特に親や教師が教えることになる。そういう人達が教えるから説教になり、教えられる方は鬱陶しく感じて、ますますそっぽを向く。
 しかし、特にその人の生活に影響がなければ、そっぽを向いても良さそうではある。他人と関わらずに生きていけるのであれば、それは可能だろう。

 私の場合は、父との関係が他人の認知にやや影響を与えていると思う。父は高圧的で、しかも独善的な人だった。両親が共働きだったので、幼い頃、実家にはお手伝いのお婆さんが来ていた。彼女は私をとても可愛がってくれた。私も彼女が大好きだった。そういう様子を見て、今から思えば、父は嫉妬したのだと思う。彼女のやることなすことに一々文句を付けるのだった。私はそれがとても嫌だった。好きな人が貶められるのがとても悲しく、そういうことを平気でする父の無神経さに腹が立った。
 しかし、それだけではなく、私はこう思った。お父さんの言っている婆ちゃんは僕がいつも一緒にいる婆ちゃんとは違う、と。お父さんは間違っている、と。
 そして或る日、私は、そこから更に先を考えてしまった。
 お父さんが間違っているのは確かだが、僕が正しいとも言えないのかもしれない、僕は婆ちゃんのことを良いように見ているが、それも僕の勝手な思い込みなのでは、と。但し、これは、本当は婆ちゃんは悪い人なのかもしれない、という思いが浮かんできたということではない。それだと、別の思い込みで前の思い込みが上書きされるということだが、そういうことではない。私に起こったのは、父や私の思い込みとは別の所(今だったら、レイヤー、と言うべきか)に、彼女は、彼女として、超然と、いるのだという思いだ。
 それは、それまで感じていた世界の有り様ががらりと変わった瞬間だった。全てのもの、まさに全てなのだが、人に限らず、犬や猫や鳥や虫や、それに石や土や水、風に対してまでも、感じ方が変わった。それまでにはなかった距離感を、それらに覚えるようになったのだ。しかし、それは悪い感じではなかった。全てのものはそれぞれにしっかりとこの世に有るんだな、といった、何か一種の敬意のような質感を含んでいた。
 だが、同時に、絶望的な感覚も含まれていた。というのは、婆ちゃんは、こんなに近くに見えていても、手の届かない所にいる、と思わざるを得なかったからだ。
 私は少し大人しくなった。結局、それまでは散々彼女に甘えてばかりいて、私の思い通りに勝手に扱っていたのだ。

 その後、私が小学4年の時に、彼女は遠くに住んでいる娘さんと同居することになり、現実的に遠くへ行ってしまった。高校1年の時に、その娘さんから彼女が亡くなったとの手紙が届いた。しかし、私も故郷を離れて随分と経った時、彼女のお墓が実家の近くにあることが分かった。
 お墓には確かに彼女の名前が刻まれていた。名前だけがそこにある。彼女の姿はそこにはない。だが、遠くにはいる。その時、私はそう思った。

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