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本屋という名の食べ物

東京で一番好きな場所はどこかと聞かれたら、恐らく私は東京駅の丸善本店と答えるだろう。もちろん全国にある支店(順天堂も含む)も好きだ。
ふと仕事で早上がりなどのチャンスを掴むと、自然と足は東京駅に向かう。
東京駅はいつも人で賑わっている。営業で回っているのであろうサラリーマン、足取り優雅なご高齢マダム、重いスーツケースを引きずって次の電車に乗るために走る旅行客、ニッカポッカで闊歩する職人さん、とにかく様々なドラマが広がっているロマンあふれる場所である。
そんな人混みをひょいひょい避けながら、右に見える紀伊国屋の誘惑にも耐えて(時々失敗して団子を手に店を出ることになる)、目的地へ向かう。
そのころになると決まって小腹が減る。燃費の悪いこの体はすぐにおなかが減る。燃費の悪さならハマー(HUMMER)にも負けないと自負している。そこで決まって行くのがオアゾ地下入口手前を右に入ったところのソバ屋である。ここでがっつり食べたら夕飯が入らなくなる、もりそば一択だ、と前頭葉は告げるのだが、気が付くと「もりそばかつ丼小セット」のボタンをぽっちと押している。人類が気の遠くなるような長い年月をかけて発達させてきた新しい脳みそなぞちょろいものだ。
とにかく目的地につくまでに関門の多いこと、多いこと。食べ終わるとあたりまえのように眠くなる。もう体も重いし帰ろうかと心弱くなるのだが、「負けちゃだめだ」などというどこぞのアニメのセリフが頭にポップするのだから前頭葉もまだ捨てたものじゃないかもしれない。いいぞ、人類。

とにかく、突如現れる虎や寄生虫やトラップを潜り抜け、そのジャングルの果てに私は丸善本店の扉をたたくのである。

お目当ての書籍を求めてここに来ることもあるが、特になにも理由がない時こそ本屋はその本分を十分に発揮してくれると思う。
例えば自分が何をしたいのかわからず、心が不安でざわつき、心が落ち着かず、精神が混沌としてにっちもさっちもいかない時、本の森の中に自らを投げ込んでみるのだ。するとなかなかにおもしろい結果が現れることがこれまでの経験上とても多い。
鬱々とした気持ちでいっぱいの時、恐らく私は心理学やセラピーや啓発本コーナーに向かうはずである。(もちろんそんな時もそばは食べる。)そんなことをぼんやり考えながら入店する。
が、意外にもそんな時に手にする本は「ビジネス大全!」とか「売れないマネージメント」「初心者からできる株」といった自分の今の精神状態とは全く関係のないであろう本なのである。そこで面白そうだと思った数冊の本をぱらぱらとめくり、内容を吟味する。その中から心に響いたものを数冊選びカゴに入れ、さらに他の階を徘徊し、故エリザベス女王を特集した英語雑誌TIMEなどを手に取り、彼女の激動の人生に想いを馳せ、小腹がすいたところでレジに並ぶ。もうそのころにはあの鬱々とした気持ちは忘却の彼方一億1000万光年向こうへと去り、衛星の望遠鏡でも捉えらえるか、はたまたブラックホールに吸い込まれてもみくちゃにされて宇宙の塵と消え失せている。もちろん楽天ポイントもしくはDポイントどちらか、そしてHONTOカードを出し忘れたりなどしない。店を出るころには気分はもうほくほくである。うっかりするとスキップしそうである。そして表に出て「ああ、夕暮れの東京駅はなんて美しいんだろう」などと突如として世界の美しさに心を打たれたりする。さっきまでは全てが灰色に見えていたというのに。いいぞ人類。

本屋に行くことは一種のセラピーではないかと思う。本屋は自分の心が今どこにあるかを指し示してくれるセラピストである。
きっと自分は今何が必要なのか本当はよくわかっているのだ。ただ日々の忙しい暮らしの中で様々な感情や情報が雑音となり、それを覆い隠してしまう。見えなくなってしまう。だから不安になったり、怒りっぽくなったり、迷ってしまう。その中であの膨大な知識と情報と紙とインクの香りのする森に迷い込み、世界中の人々の知識、経験に圧倒されると、謙虚な意味での自分のちっぽけさに気づかされる。そして彼らはそんな私に優しく両手を広げて知恵を提供してくれるのである。駅前で、簡単に行けて、自分の知らない世界を惜しみなく教えてくれて。そんな贅沢な場所を他に私は知らない。オンラインの本屋ではこれは決して体験できまい。実際に体を動かし、興味を呼んだタイトルの本を指で引き出し、紙の感触を感じ、開いた瞬間に香る紙の匂いを感じ、書かれている文字を目と頭と心でなぞる。あとは心が導くまま、その森で遊ぶ。そうして森の果実でたらふくおなか一杯になったら、足取り軽く、私は今日も腹ペコのハマーに乗って、明日の世界を作るべく、自分の住む町へと戻っていくのである。

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