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心の安定は表現の繊細さを奪うのか

心の安定と引き換えに、失ったと感じたものがあった。

20代後半になったこと、コロナ禍で生活圏をグッと縮小したことで、私のメンタルは非常に安定するようになった。自分で自分の機嫌をとれるようになった。

思春期から20代前半まで、私は非常に感情の浮き沈みが激しい人間だった。態度にも出やすく、自覚があるからこそ自分をコントロールできないことにさらに苛立ちを感じていた。
自粛で家に1人でいることが多くなり、他の誰でもなく自分自身と一番顔を合わせ、向き合ってきた。お陰で、自分の求めるものや理想像が明確になった。自分の感情をコントロールできるようになった。

そんな心の成長から1年、気付いたら書けなくなってきていた。

「表現が丸くなった」とでもいうのだろうか。以前と変わらず書きたいことはいくつかある。なのに、書き切れない。キーボードの前に向かうのに、どう書いていいのかわからない。

数年前までの感情の波の激しさは、「書きたい」という欲求を激しく奮い立たせていた。好きな人に振られた時、激しく嫉妬した時、とてつもなく悔しいことがあった時、激しい怒りを感じた時。未熟な私には消化し切れない激しい感情を、文章で書き表すことで落ち着かせていた。その時に感じたことを忘れないために、とにかく書いた。

やけ酒の後に泣きながら書いたこともあったし、悔しさでキーボードを殴るように叩き書いたこともある。感情のままに書き殴った文章は粗く、とても読み返せるものではないけれど、書くことで私の身体に染み付いた。だからこそ、心の安定は自分から書きたいという欲求を奪い去ってしまうように感じた。

心の安定を手に入れたのは、「受け流す」術を学んだからだ。今までは自分に起こった出来事のすべてを自分の身体に落とし込んで消化しようとしていた。だから、どんな感情とも100%向き合う必要があった。今は、自分にとって負の面が強い感情は受け流せるようになった。自分の中に入り込んでくるのは30%ほど。そしてその30%も、身につけた気分転換であっという間に外に追い出された。自分の中で負の感情の新陳代謝が出来上がったのだ。

でも、心の安定は新たな視野を与えてくれた。

今までは、自分に精一杯で自分の内側のことしか目を向けられなかった。でも自分のことが少しわかってきてからは、自分の外側に目がいくようになった。他人を見るようになった。休日に公園に出かけ、子どもを連れている若いお父さんを眺める。平日働いて朝早くから公園に出かけるなんてすごいな。でも、彼にとってはそれが一番幸せなことなのかもしれない。そんなことを考える余裕ができた。人のことをもっと知りたいと思うようになった。自分の目で見たものを表現したいと思うようになった。

私は表現することが好きだ。

写真も、映像も、音楽も、絵も、自分の想いを何かで表現することが好きだ。色々試したし、やってみたい表現の手段はまだ沢山あるけれど、今のところ自分は「文章を書く」ということがちょっと得意みたいだ。だから、たくさん書きたい。

少し前の自分の基準を超える文章はもう書けないと思う。粗くても自分の感情の機微を捉えた文章。それが自分の思うよく書けた文章だった。そういう意味では、文章の繊細さを失ったといえるかもしれない。でも、今の自分には今の自分しか書けない、よく書けた文章があるはずだ。

書きたいことはまだまだ沢山ある。

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