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失敗した写真が魅力的なのはなんでだろう

フィルムでもデジタルでも同じなんだけど、しばらく経ってから見返してみると失敗写真に惹かれてしまうことがよくある。そしてここでいう「失敗」は主にピント外しを指すのかもしれない。

ボクは普通の人よりはカメラをたくさん持っているし、普通の人よりは写真をたくさん撮ってる。この記事でも言ったけど「ノスタルジー」とか「エモい」って言葉だけで終わらせるようなつもりは全くないんだけど、それでも時々失敗写真にすごく惹かれることがある。

それはなんでなんだろ?

ピントが合っていなくても伝わる雰囲気

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もはやピントって必要なのかな?笑

広告写真とかは商品にピントが合っていないとボツなのはよく分かるけど、ボクが撮るような素人写真って本当にジャスピンって必要?
ソニーのAFがすごく優秀なのは知っているけど、ソニーのαを使っていたボクは後半はほとんどオールドレンズをつけてマニュアルフォーカスで撮っていたし、最近はAFが恐ろしく遅いハッセルブラッドの907Xを使っていても不便さを感じない。

フォーカスのスピードの問題じゃなくってもしかしたらそもそもピントが合っていなくてもいいんじゃないかって最近思い出してる。笑

GR3xで撮るときはF8とかに絞ってパンフォーカスで撮ることが多いし、ハッセルブラッド500CMでブローニーフィルムを使うときはかなり絞ってざっくりピントを合わせることが多い。

多分ボクが撮るような写真レベルだと、ピントが合っていなくても雰囲気は伝わるし、ピントを合わせることに一生懸命になるよりは、その一瞬を捕まえることに気をつけた方がいいのかもしれないね。

写りすぎないことの良さ

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全てが透明に可視化されたシステムで、全て認知できる世の中がハッピーだと思っている人が多い気がする。でもできれば目を背けたくなることもあるし、知らない方がみんなハッピーになることもある。「いい嘘」があるように気づかない方がいいことがあるかもしれない。

写真は見たままの姿を写し出してくれる。そして最近のカメラは目で見る以上に精細にその姿を写してくれる。

でもそれって本当にいいことなのかな?

目に見えたものを写真として形に残すものがカメラなんだけど、見たまま残さない方がいいこともある気がしてる。
ボクは昔、トイデジカメを愛用していたんだけど、あれはとにかく思った通りに撮れない。ピントを外すことも多いし構図もバラバラ。それでもあの時撮った写真は今でも見返すほど印象的で魅力的なものが多いんだ。

それはやっぱり「写りすぎない」ことなんだと思う。写りすぎないものにボクの記憶補正がかかって当時の姿以上に輝いて見えるんじゃないかな。

見えないものの先を見たくなる

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ここまで話してきたけど、失敗した写真”でも”いい理由はわかったけど、失敗した写真”の方が”いい理由ってないよね。
いきなり正解を言っちゃうけど、失敗した写真の方がいい理由は見えなかったものの先を見たくなるからだと思う。

見たいものが見えている写真が”成功した”写真だとするなら、見たいものが微妙に見えていないものが”失敗した”写真。見えていないんだから失敗なのは当たり前なんだけど、ボクが日常撮っているのは記録写真じゃなくて、あえていうなら記憶写真。

ボクの人生の記憶に残るような風景を写真で残していきたいと思っている。そんな写真だったらより記憶に残るものの方がいいに決まってる。
そして記憶に残るのはしっかりと全て見える写真よりも絶妙に見たいものが見えない写真なんだよね。

だからボクは失敗した写真い惹かれてしまうし、見えないものの先を見たくなってやっぱりもう一度失敗した写真を見てしまうんだと思うんだ。

写りすぎないことの大切さ

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だから潜在的にボクが意識しているのは「写しすぎない」こと。

普通のポートレート写真って被写体モデルさんにお金を払って一緒に公園とかに行ってモデルさんに指示しながら、モデルさんの可愛さを120%発揮して写真に収めるけど、SNSにも流れてくるそんなポートレート写真はどうしても見ていられないんだ。

笑った表情しているのに目が笑っていなかったり、多分周りに人がたくさんいるんだろうけど人が写り込まないように待ちに待った一枚だったり。時には入っちゃいけないお花畑に入って撮ってる写真もある。
そんなポートレートはどこかオーラが強すぎて、陰キャなボクは目をそっ向けたくなってしまうんだ。

ボクも時々ポートレートを撮るけど、モデルさんは友達とかその時その場にいた人に声を掛けて撮らせてもらったり。だから顔出ししたくない人も時に入るから、顔バーン!じゃなくてもどうやったらその人の素敵な雰囲気を写真にできるかなって考えながら撮る。
そしてそうやって撮ったポートレートって大概いいんだよね。

そんな写りすぎないことの良さって失敗写真の写りすぎなかったこととリンクしてるんじゃないかな。


どうやらボクは理系の人間みたいで、ボヤって雰囲気でモノを語るのが苦手というか生理的に嫌悪感があって。だからノスタルジックなものとかエモいものにもその都度理由を探してしまう悪い癖がある。
ボクが撮る失敗写真も多分、失敗したからこそ付加された魅力があって、ボクの芯のセンサーがその魅力を捉えて離さないんだなって思うんだ。

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