災難をのがるる妙法
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
江戸時代の禅僧であり、人々に大変慕われていたと言われている良寛さん。彼が、俳人の山田杜皐に宛てた手紙の文章の一部です。
少し前のこと、私はこの良寛さんの言葉の意味を本当は分かっていなかったんだ、というような気づきがありました。その時は、非二元や仏教について語っている方の話を聞いていたのですが、そのお話の中の「目の前のことと一体になりきる」という言葉が、じわじわと身に染みてくるような気がしたのです。
そして、ふと良寛さんのこの言葉が思い出され、私の解釈は微妙に違っていたのかもしれないと思い至りました。
それ以前は、この言葉を私がどのように受け取っていたのかというと「自分の目の前に起きることを受け入れなさい。」というような感じでした。この「受け入れる」というのは、その出来事を自分とは全く別の「対象」として「受け入れる」というものです。
もし「私」というものが「災難」や「死」というものと対面したら、それは「避けたい」「嫌だ」と思うのが当たり前ですね。誰だって、辛く苦しい思いや、自分が死んでしまうことは出来たら避けたいものです。簡単には受け入れられません。
しかし「私」が「目の前のこと」と1%も残さずにぴったりと一体になってしまえば、「私」はそれそのものになってしまいます。そうなると、私は「災難そのもの」であり「死そのもの」になるわけですから、そうなった時には目の前に「災難」「死」も見えなくなり、避ける対象ではなくなってしまいます。
この言葉は、そのことを伝えたのではないかと思うのです。良寛さんが手紙を宛てた、俳人の山田杜皐については詳しく知らないのですが、この言葉が伝わる相手だと思っていたからこそ、この言葉を書いたのではないかと私は思います。
ただ、自分にとって嬉しいことや楽しい事が起きている時にはそう出来ても、苦しみのさなかでは「こんな思いは嫌だ。」「これではよくない。」と思うのが、ある意味当たり前です。ましてやその苦しみと一体になるなんてとんでもない、と思うのが普通でしょう。
しかし、やはりこれこそが良寛さんの言う「是は災難をのがるる妙法」なのです。なぜならば「そのことそのものと一体になる」ということ以外は、それが消えてしまうような在り方は見つからないからです。
もちろん、このような在り方は、一朝一夕で身につくようなことではないと思うので、日々の実践の積み重ねが大切なんだなぁ、と心を新たにしたのでした。
静寂のセラピースペース*Therapy Space STILLNESS