創作は自分を表現するとても神聖なもの

作詞や作曲、絵画やデザインや執筆などなど、無から有を生み出す作業は、イメージが降りてくるのは一瞬です。
作曲で例えると、楽器に向かって延々と曲を考えてということもあるけれども、後々やっぱりいい曲だと思えるのは、短時間であっという間に書けた曲です。気に入らなくて何回も何回も手直しした曲に名曲は少ないです。

こういうふうに考えてください。
宇宙に巨大なライブラリーがあって、そこに素晴らしい曲のイメージがたくさん保管されています。
そこに直接アクセスすることでインスピレーションを受け取り、自分の解釈で曲に落とし込んでいき、録音したり譜面に起こしたりして記録する。
これが作曲です。

アクセスしてる瞬間、繋がっている瞬間は、曲を作っているという感覚すら忘れます。
無の境地になっていて時間を忘れます。

楽器を弾くときも似たようなことがありますね。
無心になって弾いているときは、自分が演奏しているという感覚がなくなります。まるで誰かが乗り移って弾いているような。
クラシックのコンサートでピアノを弾いている姿を見ると、まさにゾーンに入っているというか、繋がっているのがわかる時がありますね。

作曲の能力がある人というのは、そのインスピレーションで受け取ったイメージを、曲に落とし込む能力がある人ということです。
楽器なら、受け取ったインスピレーションを表現するセンスと技術を持ち合わせている人です。

絵画やデザインでも根本は同じで、表現する手段が違うだけです。
夏目漱石の小説「夢十夜」に、奈良の興福寺を拠点に活動した仏師の運慶が登場しますが、その小説の中で主人公が語っている一部を引用します。
芸術を深く理解してる人の表現です。

「よくああ無造作に鑿(ノミ)を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。
するとさっきの若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。

自分が彫るのではなく、木の中の仏様を掘り出す作業だと。
自分が作った、自分が彫った、自分が描いたと思っているつもりでも、実はもともとそこにあったものを、自分が掘り出しただけなのだという表現をしています。

創作することは、非常に深い意味がある神聖なものです。
作品を通して自分を表現するというとても尊い作業です。
それが誰かに評価されるかどうかということは、創作することとはまた別なことなので、誰かに認められたいとか評価されたいという邪念を入れずに、純粋にイメージを形にしていくというところにこだわりたいものです。

Mail  quont1994@gmail.com

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?