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忙しい! の研究

スーパーマン、スーパーウーマンだったらいい。どんな作業も、パパっとすませて、時間に余裕ができる。そのぶん、遊んだり、さらに生産したりできるんだから。

でも、ちがう。スーパーな人は、いない。それは、夢で、もう目は覚めてしまった。

一般人にもどる覚悟は、できたかい?

忙しくない人生は、うらやましいと思う。

けれど、人生のすべてが忙しくない人なんて、いないだろう。人生のすべてが忙しい人も、また、いない。

まいにち忙しくて目が回りそうだよ!という人だって、忙しくない生き方を知っているから、それと比べて、忙しいと感じる。忙しくない人生が存在することを、経験で知っているのだ。

それは、子供の頃のことだったかもしれない。あるいは、休日のひとときだったかもしれない。

どちらにしても、人間は、忙しく生きない生き方を、することができる。忙しいときには、忘れてしまいがちだけど、できる。

「忙しい」と感じても、感じなくても、おなじ人生のなかで達成できることの数は、そうは変わらない。時間が区切られていれば、「忙しい」とあわてることで、すこしは成果が上がるかもしれないけれど、大事なのは、そこじゃない。

「忙しい」と慌てることで、スピードを上げようと努力することは、あるかもしれない。けれど、慌てなくても、「スピードを上げよう」と意識して、おなじだけスピードアップすることだって、できるはず。

慌てた状態でのスピードアップは、焦りの気持ちをうみ、ミスをうむ。生じてしまった非生産を取りもどすために、ゆっくり行うよりも、結果的に多くの時間をさいてしまった。「最初から、落ちついてやればよかった……」そういう経験は、だれにだってある。

焦らなくても、つまり、「忙しいと思」わなくとも、人は同じだけの生産をできる。できるはずなのだ。だって、身体能力は変化しない。いまのわたしにできることは、1時間後に倍になったり、半分になったりしない。

「忙しい」という気持ちは、時間が真にたりないことが原因で、生まれる。そういわれれば、とても論理的に感じるけれど、実際はそうではない。

「時間がたりなそう」だと判断したときに、生まれる。その時間の長さでは達成できなそうなことを、達成しようと、試みるとき、忙しいと感じる。時間がぜったいに足りない、とわかりきっていれば、慌てることもないのだ。

反対に、達成すべきことにかかる時間より、多くの時間を有しているとき、「余裕がある」と感じる。

これは、人の気持ちに関することでしかない。作業量と時間と成果、それとは別の話である。

気持ちを切り離して、作業量と時間と成果だけを見てみる。

とある時間、たとえば1時間でできる作業量は、スピードが速いほど多く、遅いほど少ない。

●速ければ速いほど、生産できる。スピードを変える要因としては、たとえば家事なら、主婦・主夫はもちろん手なれているので、慣れていない人間よりは早い。しかし、おなじ主婦どうしではどうかというと、おなじ人間なので、実現できるスピードにたいして差はない。

●スピードを速める要因は、個人差よりも、むしろツールを導入するかどうか、それを使いこなせるか、にかかってくる部分が大きい。洗濯板で洗濯していた頃より、現代は格段にスピードアップしている。しかし、全自動乾燥までする洗濯機なら、干して取りこむ時間や、ベランダに移動する時間までも、さらに節約できる。

●スピードをさらに速めるには、目的物のかたちを変える、という手段もある。たとえば「洗濯物を畳まない」という選択肢もありうる。ただし、その服を着る人の気持ちとの折り合い、というものを大切にしないと、後々さらに時間とエネルギーとを食う。

スピードアップの方法は色々ある。文明の利器の恩恵をうけている現代で、なぜ労働が減った感じがしないのか? という疑問の答えは、「皆がおなじだけのスピードアップをしたから、皆が生産性を上げたので、利器を活用しても裕福な位置にはいけないから」というのが妥当なところ。

より早くに最新式のツールを使えば、一歩前に出ることができる。けれど、最新の製品というものは高価だし、その費用対効果がすごくあるのか、それとも大したことはないのか、という実験も、他人がやっていないので自分でやらざるを得ない。最新を謳っておきながら大したことがなかったら、かけた費用分の損になり、一歩さがってしまう。

ツールや方法の改革は、早すぎたらリスクが高いし、遅すぎると労働量が比較して大きくなりすぎ、置いていかれる。どの時期で参入するか、バランスが大事。

ただし、もしかけられる費用に余裕があるのなら、実験してみるのがいちばん早い。

と、ここまでスピードアップの方法を研究してきたところで、「忙しい人生から脱出する」方法を、考えてみたい。ぜひ、考えてみたい。

「忙しい」という感想は、あくまで気持ちの問題。時間や人の手早さやツールで定義される「仕事量」とは、別個の問題なのだ。仕事量については、「できることはできる、できないことはできない」に始まり、「どうやったらできる?」を考えぬいていくしかない。

このことは同時に、「気持ちの問題は、現実にある仕事量とは別個の問題なのだから、解決方法も別個である」ことを示す。

「忙しい」とは「時間がたりない」という気持ちだ。「実際はこれくらいの時間で済ませたいのに、もっとかかる」から、ほかの仕事にしわ寄せがきて、1日が忙しくなり、1週間が忙しくなる。

もっとかかる。本当は、その作業をするのに、もっとかかる。このプラスαの時間を、計算にいれないからこそ、「どうしてこんなに時間がかかるの?」といらだつ。

ほんとうはその仕事、「思っている時間+α」の時間が必要なのではないか? そうなのだ。かかる時間を少なく見積もりすぎている。

あなたは、そんなスーパーな人じゃない。皆、スーパーじゃない。ふつうの人間だ。

まず、ある作業をするのに「時間設定」をする。この作業、○:○○までに終わらせよう、と決意する。

このとき、「このくらいの時間で、できるかな? できたらいいな」程度の時間を設定してはいけない。それ「+5分」くらいの余裕をもっておく。

もし時間内にできたら、数分は余っているかもしれない。これで、完了。これで、忙しい人生から脱出したことになる。なぜなら、その数分、ぼーっとしていていいのだから。

もし、時間がたりなそうだ、と、時間になる数分前に判断したら、とりあえずの体裁をととのえて、時間内に強制終了する。洗濯なら、しわ伸ばしを省略したり、ピンチ2つではなく1つに挟んで、とりあえず乾く形にまで持っていく。

時間設定が甘かったのだ。納得がいく形に完成させたければ、次回は設定時間をすこし長くする。

時間内にできたのであれ、とりあえず体裁になってしまったのであれ、これで、つぎの作業は時間どおりにスタートできる。次の作業も、無理やり時間内に終了させる。

1日分の作業をならべていって、24時間(実際には、起きている時間しかないが)にたりなければ、その生活スケジュールは、地球で生存するには適さない、と判断できる。

そんなこといったって、1日にすべき作業が多すぎるんだよぅ、という悲鳴は、わたしにだって聞こえている。

しかし、どんな生き方をしても、24時間の現実はかわらない。さらにいえば、これまでだってずっと、1日は24時間しかなかった。その時間内で生産できるだけのものしか、人間は生産しないのだ。

「忙しい忙しい!」と慌てながら生きるのも、人生。作業するごとに2分くらい余って、その時間でお茶を飲み一息つくのも、また、とある人生。

それらは、何年もつづく。どちらがいいかは、自分で決められる。


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