Cyber-shot_修理後1_169

大切にしすぎる前に 自然に身をまかせる

時間をかける。ていねいに、行う。

そうすれば、きっと成果が出るだろう。

けれど、「ていねいに行おう」としすぎて、踏みだせなくなる時もある。ていねいは、成果物の価値をたかめる。ていねいすぎると、成果物ができてこなくなる。

小学校の頃は、ほんとうに、ていねいに輪をかけたていねいだった。図画工作の製作は、絵でも粘土でも、細部までやりすぎて完成しないのが常だった。

先生は、ていねいにやったことの過程を評価して、未完成品をわたしが提出してもなにも言わなかった。

会社に入ってみて、どう? 成果物のない社員なんか、意味がそもそもない。

ていねいすぎるのは、考えもん。雑すぎるよりさらに、成果物が少ない。

ほんとうにていねいな精神は、この現実にある世界のことを、認めない。世界は、もっとこうあるべき、美しくあるべき、整頓されてあるべき、と心のどこかで思っている。

近所を歩いていて、庭にすてられたバスタブなんかがあると、目にした瞬間、これはどけるべき、と思考がフル回転する。あたまのなかで言葉になっていなかったとしても、心はストレスを感じる。

ほんとうの適当、というものを、知らずに生きるのは、もったいないと、わたしは思う。ていねいな人間が「ていねいにやらない」ということを覚えると、それはそれは痛快だ。

世界や地球は、こんなに速く回っていたのか、と喜びを含んだ驚きで、朝日は輝きだすし、夕闇は燃えはじめる。

「こうあるべき」と思っていた形だって、それは何らかの「うつくしさ」を基準に思いえがいた姿だったはずだ。

地球の回転が速いと気づいたときの、それを上まわる美しさは、人為ではないのだ。そこが、美しさの原点なのだ。

美しさは、人間がいなければ、存在しなかった。けれど、人間が作りあげたから美しさがあるのではない。気づいたから、ある。

つくった物というのは、しょせん、自然にできあがった美しさを超えることはできない。

ここでいう自然は、植物や鉱物といった「自然界」のことを指しているのではない。「だれの意図もふくまない」という意味の、自然。

街がうつくしい理由を、ずっと考えてきた。都会の街。雑多な街。汚水のような異臭はするし、街並みが統一されてもいないし、色も高さも形状もまちまちの建物が、ひしめきあって並んでいる。

だれかが勝手にすてた自転車があり、その隣に、特色もない広告をさげた電柱がある。その電柱どうしの距離も、場所によって開いたり近づいたり。

一様でないものの、あつまり。これは、均一化なのだ。5個くらいの、似つかないものどうしが並んでも、それは、それらどうしの差異をうむ。「これらは、異なった5個のもの」という感想になる。

それが、千個になると、こんどは、「似ていないものどうしの、1つのあつまり」となって、均一になる。差異それぞれを、脳が捉えなくなる。むしろ「似ていない」という事実が、無数にあることを、「均一」だと感じる。

ていねいな精神は、世界の継続性をしんじて疑わない。

人は、その人自身の人生があって、成立している、と考える。その人生を取りはずして、人を見ることがむずかしい。その経歴あっての、その人間。だから、経歴を知ろうとするし、わからなければ想像する。

しかし、人は元来、「今を生きているこの身」しかない。バーの店主になった気持ちで、考えてほしい。初めての客が、ドアを押して入ってくる。性別は男性、歳の頃は五十代、サラリーマン風にスーツを着ている。

その男性には、もちろん、これまでの人生の紆余曲折があった。けれど、店主にとって彼は、この瞬間に存在している、ひとりの客でしかない。席に案内し、おしぼりを出し、酒の注文をきく。それに応えて、出す。その対象でしかない。

ながく付き合えば、あるいは人生の一端を、知ることもあるだろう。知ったところで、その知識には実体がない。一緒に経験した事でなければ、人間は、記憶を共有することができない。

その空想的な言葉よりずっと、ドアを初めてくぐってから今日までの、交わした会話や見た姿のほうが、実体がある。こちらが、その男性との関係において、本筋だ。

その男性にとって、バーにいる時間は、人生の0.01%にも満たないかもしれない。にもかかわらず、店主にとっては、男性の人生のうち、そのわずかな一部が重視される。

もっといえば、一度目にドアを開けたときより、今日出した一杯の酒のほうが、記憶の多くを占める。

そんなふうにして、人間関係は日々、アップデートされていく。大切な記憶も、苦い記憶も、自分にとってどんなに重要でも、過ぎてしまえば、もうそれ以上に共有が拡大して、その記憶が強化されることはないのだ。過去は、すぐに死んでしまう。

それを、後生大事と、最初の日の酒のことばかり考えてしまう。それが、ていねいな精神。いま、舌に載っている酒の味に、うわのそらでは、意味がない。

わすれても、いい。


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