三日月

きみはまだ 本当の○○を しらない

「使えない後輩でさあ」

二十代後半を過ぎてくると、就職した友人たちと会えばかならず出る話題。会社の新人問題。

対応策が、このあいだ読んだ本に書いてあった。「使えない、は、自分に使う能力がないと言っているのと、おなじ」

肝に銘じたい。自分の肝に。

家庭教師をやっていた頃、「あの子はできたのに、この子はほんとうにやらない」と思うことが多々あった。自主的な努力についてだ。けれど、それについて、やはり生徒を責めることは間違いだったと思う。

どの生徒も、受験に受かりたいと思っている。どの生徒も、できることなら努力は最小限にして遊びたいと考えている。「人生のすべてをかけて勉強だけしていろ」となら、だれだっていえる。教師の仕事とは、最低限の努力~合格、この「~」に筋道をつけて、それを知らせることにある。

だれでも、自分の希望を実現する方法がわかっていれば、自分でやるのだ。

それはそうと、後輩と接していると、ほんとうに驚いてしまうことがある。こんなことも知らないの? これもやったことないの? きみは一体、どんな人生を歩んできたのかい?

おっといけない、これが先輩風というやつだ。

赤の他人から、自分の家族まで、どんな人生を歩んできたか、なんて、だれにもわからない。人生というのは、それぞれが唯一の人生であり、しかもそれを経験するのは、ただ一人。

その人が、どのような経験をしてきたか、あるいは、してこなかったか、それを責めることはできない。なぜしてこなかったかといえば、それをしなくても生きることができたからだ。

必要のない努力を、楽しみでもないものなのに、いったい誰がするというのだろう。

だから、社会のおおくの人が経験しているにもかかわらず、その人にだけ経験がなく、業務が進まないとしても、それを責めるのは、ちょっとお門違いなのだろう。

ただ。

ただ、経験がなくとも、その人は入社してしまった。業務ができず、先輩は苛立つ。

こちらもまた、責められない。人間の心情ってのは、責めようがない。心情は、いつだって「故意」ではなく「過失」。逆に、ある心情が起こらない、というのも責めることはできない。

心情は、ようは「水が低きにながれ」ているだけのものだ。

そこで、じゃあ先輩のほうが立場が上だから、先輩が心情を垂れながして、後輩がそれを唯唯諾諾と飲みこみ、家族や友人に愚痴れば、それでいいのかっていうと。

いいわけないよね。それで後輩が会社やめちゃったらそれまでだし、育ててきた先輩側の努力も、それこそ水の泡。

心情の隆盛は、先輩も後輩もない。おなじ人間どうしの、精神のせめぎあいなのだ。どちらが上、下、つけられるものではない。

しかし、そのままにしていては、会社的に、業務が滞ってこまる。

状況において、直せるのは、自分の心情だけなのだ。相手の心情を操作することは、水を高きにあげることくらいむずかしい。

ここで、これを思いだせたら!

「上には上がいて、下には下がいる」

上も、下も、見えないほどたくさんいる。

もし、目の前の後輩を、使えない!と思っても、それはあくまで自分がいままでに出会ったことのある人間のなかでの比較なのだ。

目の前の先輩にガミガミいわれたとしても、それだって、今までに出会ったことのある人のなかで、ガミガミしい人なのである。

嫌味のつもりで「あの人、デブだよね」なんて言っている人がいたら、「きみはまだ、ほんとうのデブを知らない……!」と言い返してやろう。

本当に、ひとりの人間が経験で知ることのできる知識なんて、世界のほんの一部である。

耳をふさいで生きているわけでもないのに、それである。新しいことを知らなくてもいい、などという心構えで生きたら、どれほど狭量な人間になってしまうことか。すなわち、ほんとうの○○を知らずにいながら、「きみって本当に○○だね」を、幾度となく繰り返すことになる。

広い世界をしっている人は、強い。本当の○○を知っているから、ちょっとやそっとの○○程度では、動じることがない。

すなわち、広い世界を知れば、動じることがないのだ。わたしだって。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?