いくつ拾える? 時のすなつぶ
この一瞬は、永遠
この言葉は、矛盾している。一瞬は、ほんの短い時間で、永遠は、終りのない時間。「今という時間が、永遠である、と気づく」という表現が、マインドフルネスの本を読んでいると、ときどき出てくる。もともと、禅関係の考えらしい。
けれど、時間のながれる速度が、そのときによってちがう、という経験は、いくらでもしてきた。
なにかに没頭していれば、時はすぐ過ぎる。いやなことをやらされていれば、時間はなかなか進まない。それでも、終わらないことはないんだけど。絵や歌を思いだそうとしていて、あたまで想像することに、すごく時間がかかった気がしたのに、乗り物の車窓をみてみたらたいして動いてなくて、一瞬だったのか、と気づくことも。
そのあたりに、時の進むスピードのなぞを解明するカギが、ありそう。
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現実世界のことがらでも、記憶でも、空想でも、わたしたちの脳は、その物事をコンシャスしている。「状況判断」の単位をどんどん小さくしていって、たとえばテレビのチャンネルを変えるとき、
リモコンを見る・ボタンの数字を見る・ボタンの色を見る・ついている埃を見る・質感を思い出す・置かれているテーブルを見る・テーブルの色を見る・テーブルの質感を見る・そういえばこたつに替えたい・朝寒い・明日ゴミ出しだ……
状況判断を細かくして、言葉にするとこうなるけれど、脳はそれを言葉ではなく「そういうもの」としてとらえる。色は、黄色・緑・青、と色の名前でコンシャスするのでなく、そのままの存在として見る。「チャンネルを変える」というたった1つの行動を、無数のコンシャスネスがかたちづくる。
砂を、手からこぼして、山にしていくように。
砂は、土台になってずっと残るものもあれば、端っこにおちてすぐ転げおちてしまうものもある。また、山も、ずっとひとつではない。「チャンネルを変える」から連想されることには、「ゴミ出し」にはじまる無数の行き先がある。
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砂のうごきは、そういうことだ。だが、ひとつひとつの砂を見てみると、性質がちがう。リモコンのボタンの「青い」というコンシャスネスと、ゴミ出しの袋の「カサカサしたビニール」というコンシャスは、現実的な距離がちがう。青はいま見ているもので、カサカサは、記憶だ。
チャンネルを変える一瞬のできごとでも、その人、その状況によって、山をかたちづくる砂粒のなかみは、全くちがう。それらの砂粒のことを、脳は、ひとつひとつわかっている。どの砂粒はここ、この砂粒はあっち。
脳内のどこかの細胞が、その砂粒を作った。だから、位置が確定していて当然。わかっていないのは、わたしたちだけ。
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この砂粒の山のすべてが、目の前のことに費やされることを、「いまを生きる」と表現する。そうとうな集中力だ。そして、砂粒の入れ替わりが少ない。
砂粒のうち、一部は目の前を見ているが、一部は未来だったり、過去だったり、いやな記憶だったり、妄想だったり……と現実世界に属さないことであるのが、「心ここにあらず」だ。楽しい妄想なら楽しめばいい。けれど、つらいことを、思いだしたくもないのに延々と思いだすというのは、できるなら避けたい。
話半分に妄想をしていて、気づいたら、相手の話をまったくきいていなかった、という状況は、メインの砂粒の山が、「相手の話」から「妄想」へと遷移し、いつのまにか元の山が削りとられてなくなった、という状況なのだ。
といった、これらがわたしの妄想である。
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できることなら、どんなときも目の前のことに没頭したい。時間がはやく過ぎることにワクワクするのではなくて、そのぶん、成果物がいいものになる、と考えるからだ。
それから、大切な人々とすごす時間なのに、明日の仕事のことや、気がかりな課題なんかに心を奪われて「心ここにあらず」になる、なんてことにはなりたくない、というのもある。
コンシャスネスをコントロールするには、どうしたらいいものかなあ。
そんなことを考えながら、朝、コーヒーを淹れているうちに、香りと、一部の視覚にすべての砂粒を持っていかれ、気づくとコーヒーが湯気をくゆらせてそこにあった。
それまでに感じていた、香り、湯気、暖かそうな感じ、お湯をそそぐ手のうごき、コーヒー粉のうごきや、泡の盛りあがり、そういったものはたしかに永遠だった。
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