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また会おう どこかで 明日にでも

「過去、たのしい思い出、自慢げになれる思い出が、ゼロ」

なんて人は、いないと思うんだ。さいきん、TV番組で、恩師の顔を見かけた。その頃の、自分のことを思い出した。学生だから、収入もなくて、病気もあって、かといって手に職をつけるような勉学に励んでいるわけでもなく、元来が計画性のない人間というのもあって、将来というものが本当に虚無だった、あの時代。

それでも、社会人として自らの収支を管理しているいま、感じているような、不安や、心の引っかかりが、全然なかった。若い時代。

物質的な豊かさと、心の安寧とは、あまり相関しないようだ。

責任を持たされることの連続である、大人の日々には、休日でも、どんなレジャーをしていても、心のどこかに、引っかかっているものがある。

そういうものが無かった頃のことを思い出して、「あの頃は、不安もなにもなくて、よかったなあ」という声が、ときどき聞かれる。

けれど、子供だからといって、悲しいことや苦しいことを避けて通れたかといえば、そんなことは全くない。むしろ、初めて出会う苦難というものは、とにかくつらく感じるものだ。

そういう事は、忘れてしまうのだ。楽しかったことや、良かったことを、覚えている。そしてそれは、「過去のもの」として認識する。過去というカゴみたいなものに入っている、うつくしい小鳥。見えるけれど、手で触れることはできない。

過去は、なぜ、これほどまでに、現実味がないのだろう? まるで、いつか読んだ本の一風景のよう。本は、現実ではない。読んで、それを体験した気になっても、自分自身が得意になることはない。得意になるのは、主人公。

けれどそれらは、現実だった。過去のすべては、現実だったはずだ。

夜明けの直前のような時間が、ずっと続いている。あたりは暗く、湿っぽく、人の声もきこえない。生気の感じられない街を、行き先もわからず、ひとり、彷徨いあるいている。朝日ののぼる気配は、ない。

だからといって、部屋に引きこもらないで。街に、出よう。現実だったことを、証明するんだ。あの過去が――あの、幻のような本のなかで、笑っていた人物、得意げにしゃべっていた人物、あれらはすべて、自分だったことを。

証明してもらうのだ。その、おなじ本に出てきた、登場人物に。その人々と、街で、会おう。


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