朝おきて、会社いやだな~起きたくないな~ってならなくてすみそう な話

仕事をポジティブに考えている友達が、わたしにいて、わたしは幸福だと思う。たとえ、会社の重役でなく、起業家でなく、たんなる会社員だったとしても、しあわせに仕事に邁進することができる、その可能性をひらいてくれた。

会社にいきたくないなんて、信じられない。その会社の業務が好きで入ったんじゃないの?

そうそう。私の場合はいわゆる新卒の就活ではいった会社じゃないから、業務内容に興味があったとはいいにくい。ただし、今のポジションの「作業」はたのしんでいる。

「自分には向いていない」「毎日がつまらない」とは、なっていないということ。

なのに朝起きにくくなっちゃうのは、やっぱり人間関係だ。

そこで、友人の言がきいてくる。「作業がすきじゃないの?」

ほんとうにその作業が好きなら、人間関係なんて些末事。可能性はふたつある。「本当はその作業がきらい」か「その作業を集中してやっていない」か、どちらか。

「本当はきらい」なら、自分をあざむいている。もっと正面から、自分自身を観察する必要がある。

「集中できていない」なら、ほかに気をとられている。作業を楽しんでいない。気をとられる対象がなんなのか、注意深く観察すべき。

どちらにしろ、原因は自分のなかにある。

人間関係は、どこにでも存在する。会社だけじゃない、家族も、社会も、近所も親戚も、ぜんぶが人間関係でなりたつ人と人との関係だ。

だから、人間関係を理由に「仕事がいや」は、よくある話だとしても、やはり見るべきものを見ていないような気がするのだ。


ことだま(言霊)という言葉を知った当時、わたしはたぶん中学生くらいで、幽霊やUFOやサンタクロース程度のものだと信じていた。

真実か虚偽かを検証しようともせず、「冗談っしょ」という理解を常識的だとおもい、その常識をさらに、素直にうけいれた。

「常識」という概念が、猛威をふるっていたなあ、あの頃は。あの世代では、だれもがそうなのだろうか?

やる気がなくて、やる気をだすと白い目でみられ、やる気がない人が、クールで流行にのっている感じを醸せる、そんな時代。白い霧にまかれるなかで、誰かが見ていると夢想してポーズをとっているような時代。だれも見てないのに。

常識的な大人がいうことを何でも信じる、風変りな大人がいうことを何でも疑う。

理想的で夢みたいな人生のことを、虚構だと信じる。

「日々かつかつに生きる」「何とかやっている」というマジメな大人の言葉を、「多くの大人は、楽しみも少なく、勤勉に生きているのだ」と、尊敬する。

ぜんぶ正しいし、ぜんぶ違う。

それらの判断には、ある一つの基準があっただけだ。いかに多くの大人がそう言っているか、そうしているか。

多数決は、大勢の意見をひとつにまとめねばならないときには有効。

けれど、自分の人生のみちすじを決めようというときには、意味がない。なぜなら、自分の性格、能力、体力、知力、そのほかすべての自分の性質が、所属する団体のなかで平均であったとき、はじめて、団体全体の多数がしめす意見を有効につかうことができるから。

自分の性質が平均的かって? そんな人はいない。ある部分で劣り、ある部分で優っている。そういうもの。神は二物を与えないが、一物も与えないことも、またない。

それぞれに、適した人生のみちすじがあるはず。それは、他人による多数決ではなく自分で考えて決めるべきこと。

中高時代に出会った大人たちだって、そりゃ、そんなこと自覚してなかっただろうさ。自分たちは多数決のただなかにいて、善良な生徒たちをその渦に巻きこもうとしている、なんて。

一人ひとりの先生を見れば、人生で大事なことを、授業以外、書物や逸話でおしえてくれたこともあれば、大人になることの楽しさを語ってくれたこともある。

しかし、彼らは従順な従業員だ。全員がそう。教師という「人種」であることに、生徒たる私ははやく気づくべきだった。

従順であればあるほど、勤勉で、真面目にしていれば、いつか人生は報われる(あるいは、報われる人生などない)と考えている。そう、そんな日など、訪れない。

若い人たちは、楽しいことを知っている。幼児が自由に絵をクレヨンで描きなぐっていた頃の記憶を、まだ保持しているから。マンガひとつ読むにしたって、流されるように読んでいるように見えて、じつは強烈な興味がはたらいて読んでいる。「面白い」という感情だ。

若いということは「面白い」という感情を大切にすることだ。

じゃあ、大人は「面白い」を大切にしちゃいけないのか? 捨てなきゃいけないんだろうか。戦時中か。

「面白い」という感情を、むしろ捨ててはいけない。若い人たちはそのことを直感的に知っている。それなのに、尊敬すべき大人たちはみな「面白い」を捨て、それで尊敬される。また、そういう大人になる術を、生徒たちに教えていく。

だから、生徒は白ける。「面白い」に邁進してエネルギッシュでいることを、「子供みたい」と嘲るのだ。

今日から、おもしろいことをやらなきゃ。自分の性質と、興味にみあった、楽しいことを。逃げじゃないし、憂さ晴らしでもない、ただただやりたいと願うことを。

それを、クリエイトと呼ぶ。



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