三日月

今この瞬間、世界は終わる。それから

おなじ「助ける」の構図でも、2種類があって、けれど、その2種類はどうちがうのか、に説明がつけられずにいた。それを、やっと説明するに至ったわけだ。

発端は、家族のありよう。

ドラマや美談や一般論で、家族は、無条件に助けあうものだと定義される。一方、その助けあいのことを「取引」と呼ぶ家族もいる。『ハンター×ハンター』のゾルディック家がそれだ。

(ハンターを読んだことがない、という方々へ補足すると、殺し屋を生業とするその一家では、家族になにかを頼むとき、代わりに何人殺すから、と労働を対価として差しだす。)

どちらも、相手を助けたり、自分が助けられたりする。その構図は、まったく一緒なのだ、にもかかわらず二者はひどく異質なイメージを持つ。

そのちがいとは、「その先に、思考が及ぶか、及びもしないか」

無私の助けあいは、助けたことの見返りを求めない。「相手が助かること」をもって、自分の労働の報いは成された、とみなす。時には、見返りを待っていることはあるかもしれないけれど、かならず戻ってくるという確信はない。確信がないことを前提として、見返りを想定することなく、相手を助ける。

一方で、取引による助けあいは、助けた時点で、つぎの「助けられ」が決定する。自分の労を割けば、見返りはかならずある、あるいは、相手に助けられたなら、必ず恩義を求められるだろう、というスタンスだ。

どちらがいいか。どっちかっていや、前者がよいよなあ。けれど、取引側の思考に偏ることも、たまにはある。いつもやってあげてるんだから、たまにはやってくれたって、というそれである。

前者のどこがいいかというと、余計な思考をせずにいられるところ。海に漂うクラゲのように自然体だ。それでいて、だれかが自分を助けてくれるだなんて、しあわせの絶頂じゃないか。

それだけじゃない。相手を助けることが、自分が救われることとおなじであるかのように感じられる。たいてい、課題というのは自分自身で解決するよりも、他人から見たほうが、気楽に対応できるし、解決策も思いつきやすいものだ。

「他人事」という言葉がある。あれは、「自分のことでない限り、人は本気で悩まないもの」という意味があるが、それでいいのだ。本気で悩まないからこそ、「悩む」のではなく「考える」という対応がより容易になる。

一方で、取引のほうは、見返りの確実性がより高い。なんせ、無私の助けあいは見返りを前提としていないのだから、そんなもの存在しない、という扱いで対応がなされる。取引なら、最初から、どれだけ働けばどれだけ返してもらえるか、というのを見通すことができる。また、自分が頼み事をしてなにかを返さなくてはいけないときも、どれだけ返せばチャラにできるかというのも明確だ。

つまり、計画がたつ。ただし、うまくやりぬくには、計算が必要になる。また、見通した以上のボーナス的な利益は得られない。思考したうえに、リターンは決定している。そこが、どうも私は、好きになれない。(助けあいに好きになるもならないもないけど)。

ぜったいに助けてもらえる、という確証があればこそ、ほかの世界に足を踏み入れたり、ちょっとくらいのリスクを負って何かにチャレンジしたり、そういうことができるようになる。

実際は、人生でほんとうにヤバいなんて状況は、そうは起きない。ヤバそう、という気持ちはあっても、たいていの人は餓死なんかしない。病気で死線をさまよってから帰ってくると、つくづくそう思う。

しかし、「本当にヤバくなる日は、こなそう」というのと、「ヤバくなったら絶対に助けてもらえる」と日々感じることとは、別物だ。「助けてもらえないかもしれない」という気持ちが、いかにストレスとなり、思考回路を占領することか。

やっぱり、思考時間や思考回数が少ないほど、人間、うまくいくものなのだと思う。無私の助けあいは、それを実現しており、さらに、「助けてもらえる」という安心感をも、生みだす。

それが、家族間のことだけでなく、学校や、会社や、地域や国にまで影響すれば、いいなあ。

そのシステムがどの広さまで広がるか、というのは、人々がそれらのコミュニティを、どれだけ「生かしたい」と思うか、にかかっている。

助けあえる上に、安心感も生みだせるとなれば、こんな便利なシステムはない。しかし、それが無限に広がっていかないのは、どこかで「自と他」を分けているからだ。

個人としての自と他ではなく、家族という「うちと外」もそれ。学校も会社も、「この同じコミュニティに属する人々を守りたい」と思えば、思想も広がる。「守りたい」ってガーディアン的なご大層なお話ではなくて、そのコミュニティにいることで、自分がどれくらい得をするか、あるいは損をするか。生かされるか、じり貧状態になるか。

自分を生かすものは「自」、それ以外は「他」だ。

すべての活動は、「自」への投資と、「他」への削りとり。ランチの店選びだって、馬鹿にはできない。近いからコンビニでいいや、とすれば、ちょっと遠い自営業のレストランが、その分、収益をへらすのだ。

まあ、その場合は、「近い」ということが、労力を省エネし、「自」を生かすってことになるんだけど。

すべての活動は、「自」と「他」の区別をする。自分が本当にすきなものがあるのだったら、それを「他」にふりわけないように。



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