大岩だけど 動かせないって程でもない

周囲の人や物事に翻弄されて、荒波のなかの小さなボートみたいな自分がいて、「もうなにも解決できない!」と放り出してしまい、でも生活そのものを放り出せるはずもなくて苦しい毎日を送っている

というような無力感? 運命はやっぱりどうしようもない、という考えに至る諦観。だから、良い事が将来待っていることを確かめたくて占いを頼ったり……

自分の力は、ちいさく、弱いもの、と思ってしまう瞬間はある。でも、待って。まだやれる。その方法がある。

想像してみる。もし自分が、こんな自分でなかったら?

たとえば、世界でいちばん能力のある人間だったら。

どんなに高スペックでも、なにか偉業を成すには、人間ひとりではできないもの。やはりだれかの協力がいる。有能で、協力的な人の。

けれど、ここで壁にぶつかる。この仮定では、自分こそが世界一の高スペック。つまり、どんな人とタッグを組んだところで、その人たちは期待するほど能力が高くない。自分より下なのだ。

協調性もないかもしれない。自分たちのすきな事だけするかもしれないし、自分の利益にならないと思えば平気で楽をしようとし、給料どろぼうも辞さないかも。

さて、どうするか。

どんなに能力があっても、周囲の人間の能力や人格を、コンピュータをプログラミングするように変身させることはできない。どうやったら協力してくれるのか、どう教育したら、自分の思うような能力ある人間になってくれるか。

それを考えると思うんだ。

さて、ここにいる一人の人間は、高スペックでもなければ、世界一の才能人でもない。ふつうの、荒波に揉まれながら生きる人間だ。

けれど、状況は同じ。仮定とした高スペック人も、自分も。自分自身は精いっぱいのことをし、周囲の人は思うように動いてくれない。不思議だ。状況は、同じなんだよ。

つまり、荒波に揉まれながら生きなくてはいけないかどうか、という問題は、本人の能力の多寡とは関係がないのだ。なんと。

だれもが知っている。他人は動かせない。他人の心も、ままならない、と。

その事実を知らない子供のうちは、試みたりもする。けれどだいたいは失敗に終わる。何を目的として生きるか、なにを楽しみとし、なにを苦痛に感じるか、それが千差万別だからだ。相手のためにと思って嫌がられることもあれば、嫌味で言ったのになんの効果もなかったということもある。

人の行動原理の根本を、変化させることは、できない。

だが、人にはそれぞれ行動原理が存在する。これはほんとうだ。もし高スペックな人間なら、「○○して」と命令したり頼んだりするより、有効な方法を試す。相手の行動原理にもとづいて、利害の一致を試みる。ウィンウィンになる道筋を、考えるのだ。

んなかんたんに

って思うでしょ。私も、思う。けれど、荒波に揉まれるのは自分だ。それも、現実の海の天気とはちがって、時間がたてば太陽が顔をだし、波は穏やかに、なんてハッピーエンドも望めない。あるかもしれないけど、ないかもしれない。

だから、自分で変えるほうに、賭けてみる。

状況を変える方法があるのだから。状況を変えられるのは、自分しかいない。自分なら、状況を変えられるかもしれない。

どんな人にとっても、それは同条件。


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