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友よ④

三十歳

三十代になるとそれぞれの生活が安定していくことと引き換えに忙しい毎日となり、高校時代のことを思い出す機会は減っていった。
それでも同級生の誰かが結婚する、子供が生まれたとなると連絡がくる。
お祝いはどうする、なににする、と。
たいていは長沢がみんなの意見をとりまとめ、買い物をし発送の手配をしてくれた。
受け取った方からは、幸せいっぱいの笑顔の写真が添えられた便りが届く。

長沢は私たち四人のリーダーであり、同級生みんなのリーダーでもあった。
高校時代と今とを繋ぐ役目を長沢は担ってくれていた。

私と長沢はずっと東京で暮らしていたが長沢と会うことはなくなっていた。
勝田と久美子は日本の北から南まで、数年おきに転勤で住む場所を変えていた。

正月には地元で飲み会の延長のような同窓会が毎年行われていて、私たちも機会があれば地元に戻り、それぞれに参加していたけれど、四人が揃うことはなかった。

四十五歳

ときに電話というものは不思議で、かかってきたときの着信音が、その電話が嬉しい知らせなのか、暗雲を運んできたものなのかをその微妙なトーンで伝えることがある。

ある日かかってきた電話のその着信音はとても明るく、ある種の熱を帯びたようなメロディだった。
電話の相手は長沢だった。
「よう、久しぶり、元気だったか」
「うん、元気ばい」
「来週の土曜日、予定ある?仕事?」
「ううん、休み」
「同窓会、手伝ってくれんね」
母校の関東地区の同窓会が毎年行われていたとは知らなかった。

同学年の同窓会ではなく、関東在住のいろいろな年代の同窓生が集うもので、四十五歳の年に幹事役が回ってくるというのだ。
幹事年なのだ。

私たちの学年のメンバーが集まらず長沢が声をかけてきた。
会の司会進行から、受付、集金と人数が必要だった。「いいよ、行く」
「おー、助かる。勝田も来るって」
長沢は勝田が入間に赴任してきたと言った。
「勝田くん、近くに来たねぇ。久美子は来る?」
久美子も横浜で暮らし始めていた。
勝田も久美子もまたいつ遠い場所へ転勤となるかわからない。
会える時に会っておきたい。
何年振りだろう、みんなで会うのは。
四人が揃う、そう思うだけで心が踊った。

しかし当日会場へ行ってみると、勝田と久美子の姿はなかった。
長沢とも数年ぶりの再会だったが、会の司会役の長沢とはゆっくり話すこともできなかった。
「近々四人で集まろう」
長沢はそう言い残して先輩たちの輪の中に消えていった。

その後長沢から連絡があり四人で会う日を調整しようとしてくれたが、なかなかみんなの予定が合わなかった。
最初は来月にでも、と言う話だった。
それがお盆明けにしよう、涼しくなったら、年が明けたらと、延期が続いた。

それはみんなの生活が充実していたからであって決して友情が冷めたからではなかった。
長沢も勝田も結婚して子供に恵まれ父親となっていた。
私にもご縁があり、新しい生活を始めていた。
仕事も家庭も充実した、それぞれにとってよい時代なのであった。

今会いたいという気持ちがある一方、もっと年を取り、自分のために時間を使えるようになってからいくらでも四人で会える。
そんな思いもあった。

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