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ひかる道の向こうに



山を越えた旅人は、深く切り込んだ谷の気配に何かを感じて立ち止まった。

何かに呼び止められたような気がして谷に突き出た岩の上に出ると、そこは平らな磐座と呼べるような場所だった。蒼く霞んだ対岸に浮かび上がる岩塊が旅人を手招きするように誘っていたのだった。

旅人は暫くその岩塊の気配に対峙し、磐座に座って静かな瞑想に入っていった...風を追って荒野をわたり山を越え、己が足裏に刻まれた当てのない旅に誘われた日々を思い返しながら、旅人は深い霊気のなかに身を預け、己がこころを溶かしていった...

下降してゆく蒼い冷気とともに、谷底から湧き上がってくる上昇気流を身体に感じながら、鎮まりゆく意識のなかで旅人は、その半眼の瞳のなかに蒼い谷底からそそり立つ光の柱を視ていた...

時折りその柱を伝うように二体の龍が螺旋を描きながら現われて来る。
登り龍と降り龍とが螺旋を共にしながら現われては消えてゆく...
二体の龍は光りの柱で交差しながらその宝珠を互いに受け渡していた。

宝珠は陰陽を巡るなかであらゆる色彩の振動を発しながら明滅を繰り返し、やがて龍の動きは高速になり姿を留めることなく消えた...そして今その宝珠の明滅のみが旅人の世界になっていた。

彼はその明滅のなかに妖しく変幻してゆく文字の流れを感じていた。躍る文字は徐々に発光し、ひかりの珠は突如として弾け旅人の胸を射抜いていった。その光りの珠を受け止めたのは彼のなかにいたあの紅い衣の女だった...

弾けた光りの風圧で女は紅い炎となって燃え上がった...旅人は炎となって躍る女の姿を背中に感じながら、あの宝珠が宿した真言を聴いていた。
その真言の響きのなかで旅人は、己が眼を真言のなかに投じて視点を溶かし、両のたなごころへと移したふたつの眼で自らの姿を振り返った...

そこには自身の背後に、紅い炎を背にして紺碧の輝きを震わせる不動明王の姿があった...内部から発光するラブラドライトを思わせる紺碧に脈動する明滅のなかにその姿は輝いていた。あらゆる色彩を内包した紺碧の身体と紅蓮の炎は、明滅のなかに顕れた堅固な意志としてそこに存在していた。

強烈なヴァイブレーションを宿したその脈動は、明王の意思を思わせる深い呼吸とともに、旅人の眼はその渦のなかに吸い込まれていった...
深い蒼と青… そして紺と碧の狭間に垣間見た色彩の渦に旅人の眼は洗われ、微細な振動体感の上昇とともに彼の眼は、明王の瞳のなかに浮かんでいた...

そこは深い海のような静寂を湛えながらも、炎のように激しく燃える意志に震えていた...右眼は未来を見据え… 左目は過去を射抜き、絶え間なき而今の瞬きのなかに明王はその剣を振り下ろしていた...

激しい明滅のなかに織り込まれた微細な振動の綾は、慈愛と悲しみの高まりとともに結ばれ、ふたつの眼はその真言を映しながら下界へと解き放たれた...

粉々に砕かれた迷妄の闇は偽りの色を失い、現世はクライシスの鐘のなかに崩れてゆく...ふたつの眼はそこに明日を見… そして自身を視た...
落ちてゆく右目の後姿を見ながら、左目はその光跡を捉えていた。その光景のなかに左目は何かを想い出そうとしている不思議な感覚を味わっていた。

眼下に旅人の姿を見据えながらも時間は引き延ばされ、ふたつの眼は流星のように尾を引きながら旅人のオーラのなかへと消えてゆく...白金のように眩い世界のなかを浮遊し、静かに下降してゆく様はもはや光でも色彩でもなく、「色がにほふ」音楽とでも呼ぶべき世界だった...

ふたつの眼はやがて「匂ひ」のグラデーションに染まりながら、蒼いうみへと沈んでいった...それはあの音楽が海へともたらされる瞬間でもあった。海のなかで右目は未来へと開き、左目はそのなかに嘗ての記憶を見せられていた。ふたつの眼はこの星に産まれた意味を想い出し、旅人の視座へと還っていった...

旅人は静かに目を開けた...その時… 誰かが言った「あなたは誰」と...旅人は答えた「私は石を震わす者」と...その惑うことなき返答に旅人は驚きながらも、確かに自らの奥深くからの声であるとの実感があった。

立ち上がった彼の後ろには、紅い砂のなかに覗く碧い石があった。その石を握りしめ紅い砂とともに胸にしまいながら旅人は山を降りて行った。

内なる旅を終えた彼の前には、クライシスの鐘のなかで崩れ往く偽りの世界があった...破砕された言葉とともに嘘に凍りついた嘆きが風に舞っている...旅人はその下に仄かにひかる道を見出していたのだった。

自らの名に秘められた物語を繙くための新たな旅が始まったのかもしれない… 碧い石に導かれるように...旅人は胸から紅い砂を取りだして息とともに風に捧げた...紅い衣の女に別れを告げるかのように...





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