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【物理学xオカルト】「時間」とは、「4番目の矢印」ではなく、「なめらかさの構造」であるのかもしれない。

「時間の不思議」について、高校生の頃から囚われていた。

物理学では、時間は「t」と名付けられた4番目の矢印として、特権的な地位を与えられている。そいつだけなぜか、x, y, zという他のベクトルとは符号が反転しており、アインシュタインの寵愛を受けている。

僕は「時間」というベクトルが、4番目というだけで特権的な扱いを受けていることがどうしても許せなかった。おかしい。どうしてもおかしい。4次元空間があるとして、どうしてある方向だけを「時間」の方向として区別できるのか?

3次元空間で考えてみよう。あなたはある方向を指差して「この方向が『高さ』の方向です」と言い張ることができるだろうか? 不可能だ。

僕はさらに、「時間」というものを、空間的に表示可能なベクトルとして理解することにも無理を感じた。ベルクソンが言うように、「時間」というものは、「たて」「横」「高さ」といった空間的な認識とは本質的に異なる性質を持つものであり、「持続」といった言葉で表現するのに適している。この感覚は「三次元空間に住んでいる人間の認識力の限界」に起因するものでは決してないはずだ。

しかし一方では、さまざまなオカルト文献において、「四次元」は「時間」と関係するという報告がある。いや、より正確には、四次元以上の時空に参入した人間は、必ずといっていいほど「時間の感覚を超越する」と述べる。つまり、四次元空間が、三次元空間と異なる時間認識をもたらすことは経験的に明らかだ。

しかしその事実は、必ずしも、「時間」が「4番目の矢印」であることを意味しないはずだ。数学的・物理的真理と、オカルト的経験をつなぐもう一つの解釈があって良いはずだ。

そう考えていた私は、「低次元幾何学」という分野の知見を耳にした。

「低次元幾何学」とは、4次元以下の空間の性質を扱う幾何学のことである。「低次元」と言って馬鹿にしてはいけない。むしろ、5次元以上の「高次元」の空間よりも、驚くほど奇妙な性質を有しているのがこの4次元空間なのだ。以下の表をご覧いただきたい。

次元     微分構造
  数直線     1
  平面      1
  空間      1
  4次元空間   
  5次元空間   1
  6次元空間   1

見ての通り、4次元だけが無限になっており、明らかに特別である。

上記の表は、ある次元におけるユークリッド空間に導入可能な「微分構造」の数を示した表である。「微分構造」とは、柔らかい言葉で言えば、「なめらかさの構造」である。私たちが習った高校数学では、微分は一通りにしかできない。しかし、四次元空間では、微分の仕方が無限通りあるというのだ。イメージしようとしてもできない。

しかしここで、立ち止まって考えてみたい。
この「微分構造」こそが、「時間」と言われるものの正体ではないか?と。

ここで、「微分構造」という言葉の数学的な意味について確認しよう。

ある数学的集合(生データ)に所属する要素同士の相互の位置関係を把握しようとする時、そこに「空間」という形での認識(経験)が生じる。人間は生データそのものを経験することはできず、空間としてしか対象を認識することができない。そして、生データを精密な形で「空間」化する際には、「位相構造」と「微分構造」を導入する必要がある。「位相構造」とは、要素同士のつながり方に注目した構造であり、一方で「微分構造」とは、そのつながり方の滑らかさに注目した構造である。

今回私が提案したいのは、

  • 「空間」=「位相構造」

  • 「時間」=「微分構造」

として我々の物理的経験を再解釈することが可能なのではないか?というアイデアだ。

量子論をはじめとした現代科学が明らかにしたように、宇宙というのは根本的にはデータの流れである。そのデータを、3次元的に読み取ると私たちが通常行なっているような物理経験が現前する。しかし我々の経験的認識からして明らかな通り、そこには同時に「時間的」認識も伴っている。これは「空間3次元+時間1次元」として解釈すべきなのか?

いや、それはむしろこう解釈する方が自然でないだろうか。このような事態が起こりうるのは、3次元ユークリッド空間(※1)には、「位相構造」も「微分構造」も備わっているからだ。そして、幸運なことに、3次元ユークリッド空間には、ただ一つの微分構造しか存在しない。だから我々は、同じ時間と空間を共有できている。つまり、正確に言えば、「3次元空間の位相構造+3次元空間の1通りの微分構造」(※2)なのだ。

こう解釈すれば、「四次元において時間の感覚が超越される」ことは極めて自然である。四次元ユークリッド空間では「時間」感覚に該当する「微分構造」が無限通り存在するため、チューニング次第でどのような時間経験も可能である。渦巻き型の時間感覚もあっていいだろうし、つぎはぎのパッチワークのような時間感覚もあっていいだろう。しかしこれらはあくまでも比喩であり、異なる微分構造の経験を、三次元の頭脳を使ってイメージすることは原理的に不可能である。重要なのは、「唯一普遍の実在」としての生データは同じでも、どのような微分構造を用いるかによって無数の物理的経験が現前するという事実だ。

そして、この解釈によると、5次元以降では、再び「微分構造」=「時間」は一通りに戻る。つまり、4次元という空間は、「時間」の多様性という性質によって特徴づけられる階層であるというオカルト的真理は、これと矛盾しない。そして、「時間」は、高次元においてもれっきとして存在するのである。

「時間」は決して4番目の矢印ではない。それはもっと本質的で、高次元宇宙にも「空間」と並んで存在し続ける、物理経験のために不可欠な認識形式だ。

※1 ここで誤解を招かないように、「3次元ユークリッド空間」というときの「空間」(以下、Aと表記)と、我々が通常の意味で使う、縦・横・高さによって構成される「空間」(以下、Bと表記)との違いを明確にしておきたい。Aは、より抽象的な意味での「空間」であり、「位相構造」と「微分構造」を入れることで物理的経験の場として機能する「入れ物」のようなイメージだ。一方でBは、狭義の意味での「空間」であり、位相構造によって経験される、近さや遠さなどの感覚を伴う物理経験を可能にする認識構造を指す。

※2ここで、「3次元空間には無限の位相構造が導入しうるから、それに対応する無限の空間的世界が展開してもおかしくないはずだ」、という指摘は当然ありうる。もしかしたら、それが「パラレルワールド」として表現される物理的経験なのかもしれない。


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