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ハンプティ・ダンプティが教えてくれること

イーロン・マスクの人生哲学に深い影響を与えた「銀河ヒッチハイク・ガイド」は、銀河系の工事の都合で地球が爆破されるシーンから始まる。きわめてユーモラスだが、同時に哲学的。禅の一喝ともとれる。

ラテンアメリカのノーベル文学賞詩人オクタビオ・パスによると、言葉には二つのモードがある。歩行としての散文、舞踏としての詩である。前者がエゴの語りだとすると、後者はエゴを超えた酩酊であり、遊びである。

フランスの哲学者ベルクソンは「笑い」を、ぎこちない機械仕掛けに閉じ込められた生命が、そこから一瞬解放される瞬間に生まれる自然な反応だと定義した。ベルクソンが参照したのはフランスの劇作家モリエールだが、同時代の演劇人シェイクスピアも「人生は近視眼で見たら悲劇だが、遠目から見たら喜劇だ」という言葉を遺している。

これらはすべて一つの真理を表しているのではなかろうか。つまり、生命の本質とは遊びである一方で、私たちはエゴの操り人形として深刻な顔をして物理的現実における日常生活を過ごしている。その滑稽さこそが、宇宙の本質に違いない。

数十の言語を自在に渉猟したイスラム研究者・井筒俊彦は、晩年に「ハンプティ・ダンプティ的世界観」に行きついたという。井筒が「言語阿頼耶識」と名付けた絶対無にも似た場所では、未分化の概念たちがぐつぐつと煮え立ち、ぽこぽこと言葉が生まれると同時に世界が生成されている。言い方を変えれば、「不思議の国のアリス」に登場するハンプティ・ダンプティが行うくだらない言葉遊びによって、世界を無限に生み出しているというのだ。

宇宙はハンプティ・ダンプティによる言葉遊びによって生まれるとすれば、その被造物である人間もまた、ユーモアの使い手であるべきだ。ユーモアとは、換言すれば言葉遊びである。

ダジャレをバカにしてはならない。和歌の技巧の大きな割合を占める「掛詞」とは、すなわちダジャレである。小野小町の「わがみよにふる ながめせしまに」を多重解釈としてとらえる時、私たちは言語の二つ目のモードにアクセスする。すなわち、「遊び」のモードである。

私たちは普段、言葉を第一モードでしか使用していないが、「遊び」のモードで使うとき、それは創造作用として働く。原始言語、すなわちキノコを食べたシャーマンの語る言語がそれであり、また彼我の区別のつかない幼児が語る言語もその片鱗を含む。

最近では「勉強のゲーム化」が流行っているというが、それがもし「他人より効率的なチートを開発して競争の中でランクを上げる」ことに喜びを見出すタイプの遊戯として解釈されるなら、それはまったくもって真実の「遊び」ではない。それはドーパミンにまつわるホルモン管理の一手法以外の何物でもないが、本来遊びとは一切の管理を拒絶するものである。

学ぶことを遊びに変えるのは、学問的真理を一つの「聖なるダジャレ」として楽しむ感性である。未開の部族における婚姻関係に潜む人類学的真理が、群論という数学的真理と合致することを知った時にレヴィ・ストロースが得た感覚、それは圏同値としての「ダジャレ」以外の何であろうか?

この世界観は当然、「運命」をめぐる考え方にも相違をもたらす。エゴを超えた世界に生きる人間にとっては、自分の人生、および世界の運命の「あらすじ」が決まっていることに対して、何の反発も覚えない。一方で、「予測」を仕事とするエゴにとっては、その「あらすじ」こそがすべてである。「あらすじ」としての運命が100%の精度で決定されていると知る時、エゴは「私には自由がない」と嘆く。だが、操り人形に元から自由など与えられているはずがないのである。生命の自由は、エゴが未来を投影するx軸方向にはなく、エゴには感知不能なy軸にあるに違いない。それがすなわち、「想像」の方向である。

本当の「遊び」を行う力こそ、想像力である。遊びを失ったとき、人類は深刻な顔をして実存主義哲学を唱えだし、歯車の軋みの中に押しつぶされた機械人形と化す。その戯画を「シュール」と突き放して笑える人間、真の意味でのシュルレアリストをこそ、目指すべきではないだろうか。


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