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二元論の狭間に現れる「身体」の次元ー鷲田清一『メルロ=ポンティ』書評

今思えば、受験生だった頃はメシのことしか考えていなかった。

現代文で「メルロ=ポンティ」という名前に出会った時には、「メロン」と「フルーツポンチ」を連想して口中に唾液の分泌を感じた。同じようなシチュエーションで登場する「レヴィ=ストロース」なる人類学者は、トマトたっぷり「ミネストローネ」に語感が似ていた。本文の最後についた注釈に盛られた人物解説に目を通すよりかは、今日の晩ご飯を考えていた。

同じ青春時代でも、人によって過ごし方は違うようだ。

このメルロ=ポンティとレヴィ=ストロース、そしてサルトルとボーヴォワールは、ちょうど受験生くらいの年齢の時、高等師範学校で知り合った。彼らのうちのいずれもが独創的な哲学者となり、世界に名をはせるようになるとは、誰も予想できなかったに違いない。一体クラスでどんな会話をしていたのか、気になるところだ。(いや、それよりも同窓会の方が気になるか)

前置きはこのくらいにして、メルロ=ポンティの立ち位置について説明しよう。彼はフッサールの「現象学」を突き詰めた末に、「身体論」という独自の哲学を打ち立てた。ソ連を批判し、唯物論的実存主義を唱えたサルトルとは決別した。現象をありのままに写し取る「現象学」の観点から極めて文学的なアプローチを取るその哲学スタイルは、無味乾燥な哲学的思索とは一線を画す豊穣な知の泉を連想させ、他の追随を許さない。日本で言えば、齋藤孝さんなどは頻繁にメルロ=ポンティを引用している。

では、メルロ=ポンティの思索の中心となる「身体」とは一体何だろうか。

「身体」。それは、物質でもなく、精神でもない。二元論の中間に位置する、世界経験の「媒質」である。身体は様々な「知覚」を束ねる統一体であり、一人一人の人間にとって「世界」はこの「知覚」から生まれてくると言っていい。この「知覚」に対して「現象学」の視点から斬新な考察を加えたところから、メルロ=ポンティの哲学は始まる。

ここに一つの面白い症例がある。ある医者のもとに、脳の一部に壊滅的な損傷を受けた患者がいて、彼は鼻水を拭ったり、腕についた虫を払ったりといった習慣的動作は難なくこなすことができる。しかし、「右手を上げて」「左を向いて」などといった指示に対しては、1ミリも体を動かすことができない。これは実際に目撃された現象であり、メルロ=ポンティはここに面白い解釈の余地を見出す。すなわち、人間の知覚は本来、「縦・横・高さ」のユークリッド空間の中で規定される種類のものではなく、「習慣の束」によって織りなされる独特の「身体次元」の中を生きている。ただ通常の場合はこの「身体次元」の知覚と、みんなが一つの世界観として共有している「ユークリッド空間の座標軸」をリンクさせているので、問題が起こることはない。しかしこのリンク機能が失われると、残るのはより根源的な知覚の条件をなす「身体次元」の方が残るのだ。

こうした視点は「知覚」に対する全く新しい見方を私たちにもたらす。通常私たちは、容器としての時空間があって、そこに物質的身体を持つ私たちが住んでおり、様々な外的な物質から何らかの情報を受け取ることを「知覚」として捉えている。しかし、メルロ=ポンティの視点によれば、この「知覚」こそが私たちの経験する時空間を織りなす「生地」であり、これなくして「世界」は存在しないのだ。

こう聞くと、極めて主観的な世界観に聞こえる。ところが「知覚」の性質を真剣に考察すると、あながちそうでもないことがわかってくる。「知覚」にはざっくり言って視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚などが分類されるが、最初の三つは何らかの媒質(視覚なら光、聴覚なら空気の振動、嗅覚なら分子)を介した間接的な知覚であり、後の二つは直接的な知覚であると分類することができる。ここで「触覚」について考えてみると、通常、「触れるもの」は同時に「触れられるもの」でもある。「作用・反作用の法則」ではないが、触覚は相互的にしか成り立たないものなのだ。一方で間接的知覚に分類される視覚はどうかというと、メルロ=ポンティによれば、「視線で事物に直に触れること」として解釈される。「光が勝手に目に入ってきて、それが像を結ぶ」という受動的な解釈においては、「視覚」は「触覚」とは全く違う性質を持つだろう。だが、「見ること」をもっと能動的に捉えるなら、そこにおいて「触れること」との区別は薄くなる。このように、あらゆる「知覚」を能動的に捉え直すことで、全てが「相互的」なものであることが明らかになる。すなわち、「知覚」は一人一人の主観的世界を生み出しつつも、相互的に絡まり合い、主観の間に生起する現象をも作り出しているのだ。

この「身体」のモチーフを用いて、メルロ=ポンティは言語や社会制度について驚くべき分析を展開する。まず言語論においては、「言語とは思考の身体である」と表現される。通常、言語というのは、既に完成された思考を表現・翻訳するための手段としての受動的な意味しか持たないように言われる。ところが、私たちの思考は、「言葉にすること」によって完成するのではないか。ここでは、「言葉にする」行為こそが、「思考世界の中の身体」としての言語の能動的「行動」なのだ。そして、この「身体」は、過去の経験の蓄積による様々な「知覚」の束によって成り立っている。思えばある英単語が完全に自分のものになったと感じるような時、必ずそこに「痛み」や「美味しさ」などの知覚を連想させる要素が絡んでいることに気づく。このように、その言語世界における知覚が蓄積することで、この「言語という身体」に神経組織が張り巡らされていくのだ。こう考えると、第二外国語習得とは、新たな身体の習得になぞらえることができる。この分析はおそらく単なる比喩に止まらないだろう。メルロ=ポンティの言語論が言語習得方法に革命的な視座をもたらす可能性を私は感じた。社会制度も「社会的身体」という言葉で表現され、極めて興味深いが、詳細な分析は本書に譲ろう。

さて、このように展開されるメルロ=ポンティの身体論だが、フッサールの後継者というにはあまりにも「超越論」的要素に欠けている。現象学の創始者・フッサールは、あくまでも「超越」的世界への参入を肯定し、それを目指していたように見える。ところがメルロ=ポンティはそのような態度を「物心二元論」として遠ざけ、その「狭間」としての「身体」にフッサールが求めた「間主観性」の領域を見出した。その選択が本当に正しかったのかどうか、私にはわからない。

私には定かなことは言えないが、フッサールの現象学は、メルロ=ポンティにおいてやや劣化したと言わざるを得ないのではないか。

しかし、彼の構築した哲学は、低級なものとして退けるにはあまりにも魅力的である。その「うねる」ような文体は、その流れに身を委ねる者に文学的陶酔感すら与えてくれる。一方でそこに展開される分析は、ロボット開発者や人工知能研究者にとっておそらく驚くべき視点をもたらすであろう洞察に満ちている。

メロンとフルーツポンチよりも、「メルロ=ポンティ」を読むことの方に価値を見出すようになった自分が少し誇らしく感じられる、今日この頃である。

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