勘違いすら

 叔父が離婚したのは五年ほど前のことだった。
 夫の親族つまり僕達と上手く関係を築けないでいた奥さんが、耐えかねて出て行ってしまった。当時三歳だった幼い一人娘を残して。
 叔父は僕からすれば祖父母にあたる人達に娘を預けて働いた。凛は祖父母に懐いていたし、片親とはいえそれほど寂しくもなかったんじゃないかと思う。僕もよく遊んだ。年の離れた妹のような存在だった。
 凛が叔父のことをお父さんではなく、文則くんと呼ぶようになった頃、叔父は家にいても凛に構わなくなった。祖父母も僕の両親もそんな叔父を叱ったけれど、叔父はもう働くことだけでいっぱいいっぱいになっていたようだった。
 凛は僕によく懐き、お父さんが娘に言われたい台詞NO.1は、
「りん、大きくなったらはるくんとけっこんするの!」
 と、僕がいただくことになってしまった。
 八歳になった今も、凛は僕に会うと飛びついて喜んでくれる。手を引いて一緒にゲームをしようと誘ってくる。
 その顔は、出て行った凛の母親に年々似てきていた。



 いつも通りの学校からの帰り道、珍しく駅前のゲームセンターに寄った。何でも凛の好きなキャラクターのガチャがあるようで、週末凛がうちに来る時にプレゼントしろと母から言われたのだった。目当てのものを見つけて、凛が「これが好きなの!」と言っていたような気がするキャラクターを引いてさっさと引き上げようとした時、近くでUFOキャッチャーに挑戦していた女性が目に付いた。
 やった、と小さくガッツポーズを決めたその人がくるりとこちらを向いて、僕と目が合うとその手をゆっくりと下げた。少し恥ずかしそうに、「春樹くん?」と。

「もう高校生になったの?」
「そろそろ卒業になります」
 参考書をちらりと見せながら答えると、千代さんは早いねえと感心したように呟いた。
 僕らは久しぶりの出会いに、千代さんに誘われるまま近くのカフェに来ていた。知り合いに見つかりたくはないからと、路地の奥まった所にある隠れ家のような店だ。
「背も伸びたのに、よく気付きましたね」
 この声だって、彼女の記憶の中のものより随分低いはずだ。
「それは春樹くんだってそうでしょう?」
 何が面白いのかクスクス笑うと、湯気の立つコーヒーにふうと息を吹きかける。
 彼女の方は何も変わっていなかった。僕の記憶の中の千代さんと大差ない姿でそこに座っていた。五年が経っているのだからこの人だってもう三十路なはずなのに、大学生にでもいそうなほど若く見える。
「こんなところで何を?」
「何を……ってこともないよ、ちょっとね、暇潰しに」
「千代さんて、暇潰しにUFOキャッチャーなんてする人だったんですね」
 四人がけテーブルの残り二席には、ぬいぐるみでいっぱいになったゲームセンターの袋が置かれていた。ここに来るまでに聞いた話によると、どれもこれも一、二回で取ったものらしい。
「恥ずかしいところ見られちゃった」
 顔を赤くしながらコーヒーを啜る。見れば見るほど、今の凛は彼女に似ている。
「……千代さんは僕達が嫌で出て行ったんですよね」
 直球で切り出すと、千代さんは困ったように顔を顰めた。首を振って否定することはしなかった。
 ある程度物事を理解できる歳だったあの頃の僕は、誰に言われるでもなくそのことに気付いていた。僕らが家に来るたび引きつったような笑みを浮かべる千代さんを見ていた。
 叔父の結婚式で見た時はあんなにも幸せそうな顔で笑っていたのに。
「春樹くんは少し違ってたよね」
「え?」
「嫌っていたでしょ、私と同じように」
 何を、なんて聞くまでもなかった。あの頃から気付かれていたんだなと思う。
「春樹くんは現代っ子だもんね、何でもかんでも知られたくないよね」
「……そういうんじゃないですよ」
 けれど、その実、僕はそれが理由で親族を疎んでいた。田舎町で噂話がすぐに広まるような、誰と誰が付き合っていつどこでキスをした、なんて話が平気で交わされるような、そんな親戚付き合い。何もかも筒抜けの自分。
 今ならわかる。「凛は五月生まれだから千代さん達は八月頃に」という言葉の暴力性が。
「もう他人ですよ、知らないふりだってできたのにどうして」
 関わりたくなくて家を離れたはずなのだ。僕だって一応あの家の人間なのに。
「春樹くんは違うから。……凛は元気?」
「元気ですけど……」
「それなら良かった」
 満足そうにコーヒーを飲み干すと彼女は立ち上がった。じゃあね、と伝票を手に席を離れようとするので慌てて後を追いかける。
 店から出ると千代さんは両手をこちらに出した。ぬいぐるみで溢れた袋は今僕の手にあって、名残惜しさを感じながらそれを手にかけてあげた。
「話に付き合ってくれたお礼ね。こっちは凛にあげて欲しいな」
 そう言って、受け取った袋の中からウサギとクマのぬいぐるみを取り出す。体長三〇センチほどの、男子高校生が持ち歩くには抵抗のある、モコモコでリボンまでついたファンシーなその二体を有無を言わさず押し付けてくる。
 じゃあね、とさっきと同じような軽い調子で言って歩き出した彼女の肩を掴んだ。
「あの、今は、しんどくないですか?」
 少し考えるような顔をした後、千代さんは僕が持つうさぎに目をやると複雑そうな顔をした。何の慰めにもならないとわかっていたけれど、凛は元気ですよ、と同じ台詞を繰り返した。
 そっか。ポツリと呟いた千代さんは、次の瞬間には、やけに晴れやかな笑顔を見せていた。
「もう大丈夫なの、ありがとう」
 三度目のじゃあねの後、彼女は駅の方へ歩いて行った。

 もう大丈夫なの。
 あんな顔で言われたら、その言葉のまま信じることしかできない。
 結婚式の時と同じ、自分が今幸せの絶頂にいることに疑いもせず、これからの未来には希望しか抱かず、愛されてます、愛してますといった感情が漏れていくほどに隙だらけで、そのくせ誰も手出しができないあの無敵な笑み。
 手出しできない。だから、ただ見送った。

 数年越しの再会で顕在化しかけたものを、一瞬のうちに殺してしまう。この数年間抱いた思いすら勘違いだったと思えるように。
 クマはクローゼットの奥に仕舞うと決めた。きっともう会わない彼女に、勘違いすらも抱かぬように。




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