季節違いと隣り合わせ

 背中を伝う汗が体を急激に冷やす。だから、夏の電車は嫌い。
 夏風邪は馬鹿だから引くんじゃなくて、電車に乗るから引くんだと思う。気合の入りすぎた冷房に文句を言うのはいつものことながら、実は、今日は自業自得でもある。

 学校からその最寄り駅まで十分歩いた私は、着いてすぐにトイレへ駆け込んだ。シャツに滲むほど汗をかいていたからだ。個室の中で首、腕、脚、脇を汗拭きシートで拭いた。スカートにインしたシャツをわざわざ引っ張り出すのは面倒だったから、お腹や背中には触れていない。とにかく早くすっきりしたかった。それが仇になった。
 詳しくは知らないけど、汗拭きシートを使ったら、風が吹いたとき肌がスーッと冷やされる。その、つまり、冷房が効いた車内は今の私には寒すぎたってことだ。
 どうやらあのシート、使うタイミングってものがあるらしい。

 電車を降りると足早にバス停へ向かい、リュックに入れておいたセーターをかぶった。流石にまだ使わないと思ってたんだけど。少し恨めしいシトラスの匂いが自分から漂っている。
 今日は何だか上手くいかない。スマホは充電をし忘れたせいでもう五パーセントしかないし、いつもなら持っている飴も今日は切らしている。この時間はお腹が空くのに財布だって家に忘れた。学校にいるうちは良かったのに、下校だけがやけにブルーだ。
 時間を有効活用しようと単語帳を出してはみたものの開いただけ。しばらくボーッとしていたらバスが来た。運転手さんが手招きしてくれたので乗り込んだ。外で座っているうちに体の冷えは治まっていたらしい。軽く当たる冷風が心地良い。
 席に座ろうとして、学校を出るときに彼を見たことを思い出した。この時間帯のバスでたまに一緒になる、最後列の一番左の席を「俺の指定席」だとか言うやつだ。
 その席は私も気に入っていてよく座るのに、私の方が先に降りるからいつも譲らざるを得なくなる。後から乗ってきたって当然のような顔でそこに座ろうとしてくる。たまには私に譲ってくれてもいいのに。まあ今日はいないけど。

「発車しまぁす」
 吐息多めの喋り方をする運転手さんの声をイヤホン越しに聞きながら、背もたれに体重を預けた。今日は一人かと思ったのも束の間、ドアが荒々しく閉じては開く。バスってドアの開閉だけでも結構振動する。何かあったのかとイヤホンを取ると、大きな足音が近づき、真っ黒に焼けた彼が息を切らして乗り込んできた。
 また窓際とられた。
「やっぱり、お前やったかあ」
 当然のように例の席に座りながら、余裕そうな表情でこっちを見てくる。何なんだ、ムカつくな。
「発車しまぁす」
 運転手さんがもう一度繰り返して、バスは走り出した。すっからかんの車内にはバスの動く音がよく響く。次のバス停案内をする自動アナウンスが聞こえないほどだ。
 タオルで顔や首の汗を拭ったり、シャツのボタンをいくつも開けたりしているお隣さんが気の毒になって、リュックから下敷きを取り出して風を送ってあげた。ありがとう、くらい言えばいいのに何故か眉間に皺寄せながら、「それ暑くないん」。
 そりゃあ今走ってきたところだから、あなたはすこぶる暑いでしょうけども。
「電車寒かったから」
「ふうん」
 きっと他の人から見たら、季節感がよくわからないことになっているだろう。暑がりの彼と寒がりの私の間ではよく起きることだった。
「お前はいつも暑苦しそうや」
 うげ、とでも言いたげな表情で人のセーターをつまむのはやめてほしい。そんな汚いものに触れるみたいな扱い。私が下敷きをリュックに片付け始めると、彼はおもちゃを取り上げられた子どものように下敷きの行方を目で追った。それが何とも幼く見えた。
「冬場まで半袖でおる小学生みたい」
 小学生の頃学年にいた、ずっと半袖半ズボンなのにやけに元気だった子を思い出した。別に半ズボンじゃないけど。普通に制服だけど。
「まだ夏やろ! 小学生はお前や」
「三十九点うるさい」
 お互いがお互いに言われたくないであろう箇所を一つずつ吐き捨てた結果になった。けれど焦り始めた彼を見て確信した。勝ったな、と。
「待て、何で俺の英語の点数知ってんねん」
「何でやろなぁ」
 はっはっはと笑うと、何かがバキッと音を立てた。あーあ、と言って彼が手のひらを開けるとイチゴ味のキャンディが粉々になっていた。
「誰のせいやろな」
「私のせいじゃないよ」
「あげようと思っててんけどなあ!」
「えっ、くれるん」
 ちょうだいと言って両手を差し出すと、しゃあないなと言いながら割れていないきれいなキャンディをくれた。ポケットにもう一つ入っていたらしい。


 気づけば、家の近所だった。いつの間にか寝ていたらしく、すっかり日が落ちている。真っ暗な窓の外に街灯だけがぼんやり見える。降車ボタンを押すと、隣が起きた。
「もう、次?」
「もう着いた」
 バスが道路脇に寄った。運転手さんが停留所の名称を二回読み上げた。
「じゃあね」
 バスから降りると、眠たそうな彼が手を振るのが窓越しに見えた。欠伸をしながら、なおも振り続ける。私が振り返すと彼は満足そうに笑い、バスは遠ざかっていった。

 まあ、ブルーじゃなくなったかも。
 口角が上がった気がした。


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