本を開いて、単語を探していた。
 何でもよかった。使えそうなものなら、何でも。なぜ探していたのかといえば、課題だったからだ。小説を書く課題、四〇〇〇字の。それのテーマにする単語を探していた。
 最初は余裕だと思っていた。いやいや四〇〇〇字なんて、ねえ、たかだか原稿用紙十枚でしょ、と。

「で、今この状況?」
「言わないで」
 本棚の中身をひっくり返して早一時間。決めきれずに本棚前に座り込んでいる。そんな私を見下ろす彼は、もう三五〇〇字を超えたらしい。少し休憩、とパソコンを閉じている。その対面にある私のは真っ白だっていうのに。
「早く決めなよ、あと二週間でしょ」
「わかってる」
「余裕とか言ってたのに」
「……うん」
「期待してて、とも言ってたっけ」
「……言いました」
「今、何字だっけ」
「うるさいなあ!」
 耐えきれなくなって立ち上がり、鳩尾に一発食らわす。田中はお腹を押さえて踞った。静かじゃないと集中できない。だからこれには正当性がある、はず。
 それにしてもどうしよう。“夢”や“過去”、“自分”や“日常”なんてありふれたものにはしたくなかった。テーマを何にするかという時点でいくらか点数がつけられてしまいそうで、かぶるのだけは絶対に嫌だった。ここでいかに個性を発揮できるか。それにかかっている気がしていた。
「田中」
「あ、俺のテーマは教えないよ」
「ケチ」
 でも、こんなにも決まらないでいると、他の人がどんなものをテーマにするのか気になってくる。個性がどうとか考えていたくせに。
 諦めて棚に本を片付け始めた。それを見た田中は「適当でいいよ」と言ったけど、本棚の中がぐちゃぐちゃで気にならないその神経を疑う。自分のことを几帳面だと思ったことはないけど、普通気になるものじゃないの?
 もともと収納されていたものまで出して並べ直す。巻数順に並んでいないのも、場所は空いているくせに本の上に更に本を重ねているのも論外だ。本棚以外は整頓されているのにどうしてここだけこんなに荒れているんだろう。
「別にいいのに」
 私が気になるんだって。


 何の収穫も無いままに月曜日が来てしまった。同じ授業を取っている知り合いにどんな具合か聞いてみようと、私にしては珍しく自分から人に話しかけてみたけど、「まだ一〇〇〇字ぐらいなんだよね」とか「結末が決めきれなくて困ってる」とか、同レベルの人が一人もいなくて焦りが増すだけだった。
 他の授業中や長い二時間の通学時間の中で考えてみても何も出てこない。これまでの課題はその時間に文章を考えていたのに、そのレベルにまで達していない。今回は以前と違ってテーマから考えないといけないから仕方ないかと思いつつ、しかし、実のところ、物語は思い浮かんでいた。
 ただし、断片的に、いくつか。
 テーマが無いと一貫性のあるストーリーが書けない。今のままでは自分の書きたいものを自分の好きなように繋げた自己満足の塊ができるだけだ。それでは書き始めても途中で破綻してしまうと、経験上知っている。ましてや今回は四〇〇〇字。そんな適当具合じゃあと一週間と少しで完成なんて無理だ。
 破綻だの無理だのマイナスな言葉ばかりが頭を巡って、段々と気分が落ち込んでくる。これまで私が書いてきた作品はそんな具合だった。
「あなたの作品は、どこか陰鬱としている」
 教授にはそう批評された。
 私はこの最終課題でそんな評価から抜け出したかった。陰鬱な作品が嫌いなわけではない。むしろ、好んで読む方だ。だけど。
「文章はその人の性格を表すもの」
 なんて、教授が続けるものだから。私は私自身を陰鬱な人間にはしたくなかった。陰鬱だという評価を変えたかった。だから、この課題に賭けているのだ。

「それで、進んだ?」
 隣に座る田中は余裕そうな笑みを口元に浮かべながら、私のスマホを覗き込んだ。表示されているのはただのメモ。思い付いた単語を書いていこうと開いたのに。
「真っ白じゃん、大丈夫なの?」
 もうまともに何か書ける気がしない。誰だろう、余裕なんて言っていたやつは。ため息をついて、昼食のパンを頬張った。どうしよう。
「もっと軽く考えたら? 前に書いた課題を膨らませたりしてもいいんだし。ほら、人物の時のやつとかさ。俺はあれ好きだったよ」
 確かに、前の課題の内容を使ってもいいとは言われていたけど、私はそんなことしたくなかった。あれは四〇〇〇字なんかじゃなくて、あの短さ、六〇〇字だから成功しているのだ。あれでもう全てなのだ。
「その好きが無くなっちゃう気がするんだよ」
「そう。なら頑張れ」
 箸を置いた田中がトレーを持って立ち上がった。青のシャツが離れていく。
 昼時の教室は騒がしい。自分も誰かと話していればそんなに気にならないけど、一人になれば嫌なほどはっきり思い知らされる孤独。それを紛らわすために手元のスマホに集中した。一旦メモを閉じる。ネットにだって言葉は溢れている。もう本当に何でもいい。投げやりになってきていた。

「お前、テーマ何にしたの?」
「なかなか決まらなくてさあ、目の前にあったからって理由で、スマホにしたんだよ」
「とりあえずテーマ決めなきゃ書けねえもんなあ。ま、俺は決めずに書いてんだけどさ」
 聞き慣れた声に振り返ると、同じ授業を受けている男子だった。
 目の前にあるもの。なるほど、そんな決め方もあるのか。手元にはスマホ。このままではその男子学生と同じになってしまう。どうしたものか。
「アイス買ってきたんだけど」
 しばらくして戻ってきた田中の手には、ソフトクリームが二つ。ソフトクリーム? いや、なんかそれじゃ食いしん坊みたいな印象を与えてしまうかもしれない。何よりテーマが食べ物だと、書いている最中にお腹が空く。
 と、その瞬間気づいた。もう一つ、目の前に在るもの。
「食べる」
「礼は?」
「奢り? ありがと」
 呆れたように、今回だけな、と渡してくれるソフトクリームを受け取る。冷えた室内で食べるソフトクリーム、最高。三限が空きでよかった。お陰でゆっくりできる。
「テーマ決まった」
「本当? よかったじゃん、何?」
「内緒」
「アイス奢ったのに」
「田中だって言わなかったじゃん。たかが一九二円」
「これ、三〇〇円の方」
「えっ、うそ! やるじゃん」
 田中が買ってきたのはコンビニのプレミアムソフト。私が前から食べたいと言っていたやつだった。珍しく課題に苦戦してるからさ、と。
 彼は少し私に甘い。


 書き始めてからは早かった、とは言い難かった。物語を書く上でこんなに苦労したことはないと思うほど何度もつまづいた。書いては消し、書いては消しを繰り返し、いっそテーマを変えてしまおうかと思いもした。その度浮かぶあの日のソフトクリーム。三〇〇円。
 これまでのことを思い出す。例えば、それこそ、ソフトクリームとか。乱雑な本棚とか、青色のシャツ、聞き慣れた低めの心地良い声。
 確実なことは何も無かったけれど、ただそこに居た。それだけでよかった。小さな思い出の一つ一つを何となく覚えている。あっさりと過ぎてきた日常の中でそれだけがはっきりと異色を放っている。
 この感情がよくあるあれなら、こんなにも陳腐なテーマはないだろう。

 何とか書き終えて、提出日には無事に間に合った。これまでで一番感情的で、まとまりのないお粗末な文章。けれど、教授からの批評メールには“陰鬱”という文字が無かった。それだけでも書いた意味はあると思った。
 授業日になって、教授のお気に入り作品三本が匿名で載ったプリントが配られた。私のは無かったけれど、それでいいと思った。あれはきっと人に見せるようなものじゃない。
 一つ目は独特な感性の多少グロテスクなもので、少し気分が悪くなった。二つ目は青春微炭酸、シーブリーズを思い浮かべてしまうような学生もので、少しだけ高校時代を回顧したりした。そして三つ目は、
『−−これが何とも厄介なもので、言ってしまえば楽になれるのは自分だけで、相手には背負わせてしまうことになる。それでも、と向き合えるほど強くはなかったし、現状に甘えていたかった。そうして、これまで通りを続ける。−−だからまだ、部屋の本棚は乱れたままだ。』
 最後の一文から目が離せなかった。
『この先もどうかここに居て。』
 隣に座る彼は、今どんな気持ちでいるのだろうか。

 授業が終わると、彼は「帰ろう」とすぐに立ち上がった。袖を掴んで引き止めたのが間違いだとは思わない。
「三番」
「……そう。テーマは恋」
「陳腐ね」
 だから言いたくなかったんだ、と田中は顔をしかめた。でもすぐにいつもの何でもないような顔に戻る。
 その余裕のある感じ。負けた。
 だから、言う必要なんて少しもないのに自分から言ってしまう。
「少し似た内容だった」
「意外、絶対そんなテーマにはしないと思ってた」
「違う。テーマは田中」
「……へえ」
「かぶりっこないでしょ」
「……そりゃあね」
 田中は深くため息を吐くと、もう一度「帰ろう」と言った。
 いつもと同じようにどうでもいいような会話をしながら歩いた。漂う空気だけが違っていた。向かったのは田中の下宿先。相変わらず本棚は荒れていて、私はそこばかり見てしまう。
「片付けていい?」
「もうしなくていい」
「何で?」
「わかってるくせに」
 “わざと”なんて、そこに余裕は少しも感じられない。顔を反らしたのは恥ずかしさからなのか、耳が少し赤い。
 二人して馬鹿みたいだ。陳腐だと言い放った感情をお互い底に隠し持っていたようで、何が「この先もどうかここに」なんだろう。たったの二文字で済む話なのに、不器用にもこんな形で伝え合った。何とも、私たちらしい。

 後日訪れた田中の部屋には荒れている箇所なんて一つも無くて、彼の口実はもう必要無くなったんだと口元が緩んだ。


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