ある雨の日の一幕

 息がしづらいな、と思った。
 静まり返った空間じゃ自分の声が無駄に大きく聞こえてしまう気がして、さっきからずっと黙りこくっていた。
「すごいね、これ」
 ハハ、と笑いながら夕貴が窓を指差した。直接ホースで水を吹きかけたかのように窓は濡れている。いつもの、つうっと雫が流れていくようなやつとは違っていた。
「今年もすごい豪雨らしいね、梅雨来ないんじゃないかと思ったのに。もう七月だよ、いいじゃんね、そのまま夏になれば」
 気温は三十度、そのままでいればTシャツが張り付いてしまうほど蒸し暑くて、室内は冷房で冷やしていた。電気を使い過ぎるのが勿体なくて、薄暗いけれど電灯はつけないでいる。

「水族館行けなくてごめん」
 ソファの近くにいたはずの夕貴がいつの間にか窓のすぐそばまで来ていた。私は窓に書いていた文字を消し、首を振った。
「千景が先月から行きたいって言ってたし、珍しい所だったから行きたかったんだけど」
「もう一日の計画だって立ててたし」
「屋内だし、電車とバスで行くし、行こうと思えば行けたんだけど」
 夕貴は手を開いたり閉じたりしながら、言い訳じみた文句を繰り返した。

 駅で待ち合わせして、電車に乗ったところまではよかった。まだ空はそこまで曇っていなかったし、雨だって降っていなかった。ひどくなったのは、六駅過ぎた頃。叩きつけるかのような雨音と窓から見える外の風景に、車内の人達は驚いていた。もちろん、私と夕貴も同じように驚いたし、そのせいで私達は折り返して夕貴のアパートへ帰って来ていたのだった。


「千景、このスカート新しいやつでしょ。こないだ店で見てたやつ」
 私の履くロングスカートをつまんで、夕貴はため息を吐いた。
「新しい服汚すのは絶対嫌だろうなって。バス停から水族館までは少し歩くし、こういうのだったら地面に着いちゃうよなって」
 自分の服装が原因で計画がおじゃんになったのだとは思わなかった。それもまさかこのスカートのことまで覚えているとは。
「私の、」
 少し声を出しただけで、夕貴はこっちを見て「ん?」と続きを待ってくれた。バチバチと、バルコニーの床に当たっては弾ける雨粒の音がうるさい。
「スカートのことなんか気にしなくてよかったのに。退屈な休みにさせちゃってごめんなさい」
 思いのほか、自分の声は室内に響かなかった。
「俺だったら嫌だなと思っただけだから。退屈でもないし」
「本当?」
「ほんとほんと。天気の責任まで負わないでって。今日が雨なのは前からわかってたし」
「前からわかってたのにこんなの履いてきちゃったし、やっぱり私が駄目だったんじゃ」
「それは俺と出かけるためでしょ? むしろ嬉しいぐらいだし、もうほんとに、気にすることなーし!」
 夕貴が両手で私の顔を包んで、パンっと軽く叩いた。「気にすることなし」と小声でもう一度言った。私が頷くと夕貴は満足げに笑った。

「それにしてもすごい音」
「家壊れそう」
「ハハ、大袈裟。また玄関の所水浸しになったらやだな」
「一階はもう駄目そう」
「ここなあ、二階だって言っても、廊下に水溜まるような構造してるから……」
 そういえば昨年は、ドア下から水が溢れ入って来て置きっぱなしにしていた靴が水没した。私のが一足、夕貴のが三足。嘆きながらゴミ袋に突っ込んだことを思い出す。
「なんかそういうとこ甘いんだよね、このアパート」
「だから安いんじゃないの?」
「あっそういうこと? 二年目にして気付いた、そろそろ引越しするかな」
「もう安いからってすぐに決めるのはやめなきゃだね」
「はーい、ちゃんと見て決めます」

 屋根から伝っていく雨がバルコニーに置いた吸い殻用の空き缶か何かに当たって、一定のリズムで音を鳴らしている。そんなかわいらしげな音を凌駕する洪水をもたらすほどの激しい雨は大粒みたいで、バタバタと落ちてきては止まらない。
「こんなになるまで降ってるのに雷鳴らないんだね」
 返答がなくて隣を見ると、窓に寄りかかって寝そうになっていた。またしても訪れた静寂に少しだけ息が詰まる。
 けれど、様々な雨音の中で微睡む夕貴を見ると、こんな日も何だか悪くないなと思った。

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