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徒然note

先日、数年ぶりにお葬式に行った。
会場になったのは、
古くてとても雰囲気のあるお寺だった。
山が近くて、とても良いお天気で、
形の定まらない悲しみを持て余してしまうような、そんなふわふわした気持ちで。

当たり前だけど、
みんないつか死んでしまうんだよなぁなんて、
こんなときだけ実感する。


火葬場には、
たくさんの遺影が場所ごとに設置されていて、
若いときのかもしれないけど、
ずいぶん若く見える遺影ばかり並んでいて、
そういうのを見るのもうっすら悲しくなるような。悲しいというより、よるべない気持ち。



お経をあげてもらって、
ご焼香をして、火葬場で最後のお別れをして、
2時間ほど待ってお骨拾いをして……

さっきまで棺で眠っていたひとが骨になってしまう。その衝撃は、何回体験しても慣れないなって思ったりとか。


子供の頃は、お葬式ってさみしくて悲しいだけだと思ってたけど、
(今もそうは思うけど)
最近、もっと違うことを思うようになってきた。
ここに集まってるひとと、関われる縁みたいなもの。それをあらためて強烈に認識させられるというか。


家族がいるって、すごいことだ。
そういう縁を結ばれて、今存在できていること。
その人が存在しなければ、私はいなかったんだろう、とか。

そう思うと、感謝に近い感慨が胸のなかからあふれてくる。

ひとの一生ってとても短いんだな、というのも。
その短い時間のなかで、
関われている人々って、とても希少で貴重なんだと。

普段は考えないことを、
あらためて思ってみたりする。

告別式って、悲しいけど、
ただ悲しいだけじゃなくて、
今生きていることのかけがえのなさが、あらためて浮き彫りになるよなぁって。生きてることの重みとか、家族のありがたさとかも。


その日は、
なんだかしみじみして、
帰り道はぼうっととした。

目に映る風景がいつもよりも、
鮮明に迫ってくるようだった。



数日後、
吉本ばななさんの『ミトンとふびん』を読んだら、今の気持ちにピッタリだった。
小説に書かれているほど近しいひとや友達を亡くしたわけではないけれど、
死を体験した後の怠さとか、快復するときの甘さとか、その気持ちの過程が読んでてホッとする感じ。


吉本ばななさんの小説って、安心する毛布みたいだ。

読むというより、
綺麗な光を垣間見たような気持ちになる。
遠い景色を眺めるような。

とてもさりげないけれど、生きる本質が描かれている。


生きていること、私がいることそれ自体が、すでに平和そのものなのだ。嵐も死もない、怯えて将来に来るこわいことや楽しそうなことに接する必要はない。私はいつでも私だ、と。

『ミトンとふびん』


死に向き合うことは、
自分が生きていることを顧みることなんだな、と思う。


またいつかは忘れてしまうかもしれないけれど。

ときどき思いだしながら、
一日を生きていけたらいい。



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