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短編小説「二番乗りの教室」-後編-

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短編小説 (現代/学生/青春/微恋愛/ほのぼの)

                  二番乗りの教室
                  ―後編―

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 部活のない日は、学校の図書室奥にある自習室で、課題に半分くらい取り組んでから帰る。
 時間的に絶対無理だと絶句するほど、大量の課題が出ることでよく知られるこの学校に、時に呻き、嘆きのため息をついてしまうのはわたしだけではないはず。
 量より質だとも思うけれど、もしかしたら良質を選りすぐっただけでも大量にあるのが学問というものなのかもしれない。
 どちらにしても、三年分の勉学の量はけっして薄っぺらくはない。みんなで机に齧りついてペンを持って頭を懸命に目まぐるしく働かせた時間は、時を重ねるごとに濃密になっていく。比重を増していく。今日は短時間で切り上げたはずなのに、みるみる日が短くなった最近は、夕方の空気が溶けて夜の雰囲気が廊下に忍び寄る気配がある。
「ヒイラギ」
 今はすっかり緊張しなくなったその声に呼び止められて振り返ると、予想通りの人が色の濃い影を足に落としてそこにいる。
「タカミネくん」
「帰り?」
「うん。帰るところだよ」
 ちょうど良かった、という声が聞こえた気がした。
 わたしより背も高くて歩幅の大きな彼は、たった数歩で数メートルの距離を詰めてくる。
「タカミネくんは……えっと、」
 部活ではないよね、と言い淀んでいると、いつも通りのさっぱりとした返答が来る。
「部活の顧問に挨拶してきた。明後日だから」
「あさって?」
「俺、引っ越すんだ。明後日の日曜」
 わたしは驚いた。そのわたしを見て、タカミネくんはいつも通り跳ねた髪を右手でくしゃくしゃと気まずそうに掻き混ぜている。
「クラスのみんなには、明日の放課後に伝える予定」
「引越しって……」
「親の転勤。二年後には帰国する予定だけど、分からないからな。向こうで日本語学校に通う」
 わたしはぽかんとして「帰国?」と確認する。
「海外なんだ。卒業まで、この学校にどうにか通いたかったし、一人暮らしも考えたんだけど、頼りになる親戚がいなくてさ。何だかんだ親についていくってわけ」
 言って、彼は下唇を出して前髪を吹き飛ばす。絶句しているわたしを見て、タカミネくんは苦笑した。
「部活辞めたのは、夏の大会の後、他の試合が間近に控えていたから。試合直前に俺はいない訳だし、俺が抜けた方がレギュラー組みやすいだろうってコーチや顧問と相談して決めた。顧問はギリギリまで部活に参加しろって言ってくれたんだけど、やっぱり途中抜けが決まってるやつがいると集中しづらいし、俺も俺で気を遣う。面倒だし、ヤなんだよ、そういうの」
 彼は沈黙した一瞬の間に、何かを想い、何かを振り切った。
「……おれ、気に入ってたんだ。このクラスの雰囲気とか、部活の仲間とか、学校とか」
 彼はいつも、窓の方を向いている。わたしと話す時に、大抵そっぽを向いていることが多い。
 だからわたしは、彼の正面の顔よりも横顔に親しみを感じる。ズボンのポケットに手を入れて、しゃんと背を伸ばして、何かを捉えて話さないような眼差しの彼は、わたしよりずっと大人に見える。
「面倒くせえ勉強や有り得ねえほどの課題の量とか、学業重視の教師とか、好きになれないところもあったけど、クラスは良いヤツらが多いし、いじめもねえし。部活のメンバーもコーチも顧問もいいヤツらで、楽しくて」
何より生まれ育った場所だから、と彼は茜色の光が彩る景色をやさしく見ている。
「この時、この場所でしかできないこと、みんなともっと色々やりたかった。戻ってきても、多分みんな卒業してバラバラになってるだろ? 連絡はできても、直接会ったりするのはあんまりできねえと思う。少なくとも毎日顔合わせるなんてのは、ここにいられなくなったらできねえんだ」
 彼は大きく息を吸って、何かを溜め込むようにその空気をなかなか吐き出さない。やがて、ゆっくりと長く、何かを落ち着かせるように息を吐き出す。
「今ここでしかできないこと、やれるだけやりたかった」
 まずは目の前のことなんだけどな、と彼は本当に軽い調子で決して軽くないであろう言葉を紡ぐ。
「そっか……」
「うん。あと、ずっと朝早く教室に来てる女子も気になってて、もっと話してみたかったし」
 その言葉を聞いても、わたしは誰のことだろうと直ぐに理解できなかった。
 怪訝そうなタカミネくんの顔を見て初めて、先程ぽんと放たれた言葉が耳の辺りをふわふわと漂い、頭の中を一周巡って、遠心力と共に頬をぱちんとはたかれたくらいの強さはあった。
「……え?」
 びっくりしたわたしに、タカミネくんがびっくりしていた。
「気づいてなかったのか?」
 え、とわたしは呆然と口から零す。「気づくって、何を?」
 いやそりゃ確かに気づかせないようにはしてたけど、と言い淀む彼に、わたしの思考は空回りしそうになって焦る。
 何のことだろう。『気になる』って何だろう。どうして『話してみたかった』んだろう。わたしは影が薄いというか、自分でもぱっとしない存在で、タカミネくんみたいな光の前でようやく自分の足許の濃い影に気づくような存在のはずなのに。そんな自分でも、わたしは全然構わなかった。
 でも少し前から彼みたいな存在を前にし始めて、前より少し調子に乗ってしまっている部分があるかもしれない。もしそうなら反省しなければ。間違えちゃいけない。
「あの……あの、ごめんね」
 慌てて口走った途端、彼は顔を痛そうにひそめた。
「それ、どういう意味の謝罪?」
「え? いやだからその、わたし、とろくて気づかなくて……」
 そう、早とちりはだめなのだ。わたしを気にかけてくれたというだけに違いない。それだけでも嬉しいことだ。そう言い聞かせてやっと、普段の落ち着きを取り戻した。
「わたしもタカミネくんと話せて、うれしい」
「…………なにその他人行儀な返答」
「はい?」
「俺のこと、嫌いなわけ?」
 え、とわたしは目を丸くした。
「そんな、きらいなはずないよ」
 慌てて否定すると、ポケットにあったタカミネくんの片手で彼の顔を隠すように覆われてしまう。呆れた様子の小さいため息と「どうすっかな」と悩んだ呟きも聞こえてくる。
 これ以上何か言うとタカミネくんを更に呆れさせるばかりのような気がして、学生鞄を両手で懐に抱えるように抱きしめて沈黙した。情けない。しかも頬が熱い気がする。きっとまたいつもの癖だ。学生鞄を叩くような心臓が強く拍動している。いやだな、と思う。こんな気持ちになる自分が恥ずかしい。そんなこと、あるわけない。
 自分にない光を持つ存在のひとたちに焦がれて、ひそかに静かに諦めてきたのに。何度近くにいて仲良くした気になっても、勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになるのは、もういやなのに。最初に体育館でボールを手にしたタカミネくんの鋭い眼差しに、釘づけになりそうな奥底に沈む自分を否定してきたのに。何度も、何度も――。
「……朝練の癖だけじゃないんだ、朝早く起きてたのは」
 オレンジ色の空気の中に、ぽつりと言葉が広がる。その響きの余韻を聴覚で必死に掻き集めて受け取ろうとした。
「二人きりで会える時間って、朝しかなさそうだと思ったから」
 おずおずと視線を上げるとタカミネくんの眼差しとまともにぶつかって、わたしは咄嗟に俯いてしまう。
「クラスには明日言うことを、今、ヒイラギだけに前もって言ってる。……その意味、分かる? 特別だってこと、伝わってほしいんだけど」
 真意を確かめたいのに、どうしても顔をあげられない。なのに誤魔化しようがないほど首まで熱くなった。押さえ込んできた否定を肯定に変えるのは、直ぐには無理だと痛感した。
 沈黙はとても長かった。でも多分そんなに長い時間じゃなかったと思う。
 彼は小さいため息を零した。
「ヒイラギ。最近、邪魔して、ごめんな。朝一番の教室の雰囲気、気に入ってたんだろ?」
 わたしはハッとして顔を上げた。彼の少し哀しげな眼差しを見て、胸の奥が苦しくなった気がした。慌てて首を横に振る。
「教室は誰のものでもないんだから……誰が一番でもいいんだよ」
 強がらず心からそう言い切れた自分の変化が、わたしは素直に嬉しかった。少し落ち着きを取り戻して視線を上げ、そっぽを向くように窓から目を離さない彼をまじまじと見てしまう。そして、ひとつの考えが静かに湧いた。
「……じゃあ、もうタカミネくんと話せなくなるんだね」
 自分で言って、ショックが音もなく胸を衝く。タカミネくんがこちらを見ても、今度はそれをしっかり見返してしまえるほどだった。穏やかな水面に小石を投げられたときに描く波紋は、大きかった。
「あの朝の教室から……いなくなっちゃうんだ」
 彼は「いや」と口の端を上げる。「明日はまだ来れるよ」
「そうだけど」言いかけて、わたしは言葉を切る。
 いつの間にか、タカミネくんが居ることに慣れて、それが当たり前だと慣れようとしていたらしい。それは決して当たり前なことではなかったと、今なら解る。偶然でもなく、彼の意志が伴わなかった出来事だと知ると、なおさら。
「そうだけど……あと一回だけじゃ……」
 ――さみしいよ。
 かすかな呟きは、廊下の空気に静かに横たわって何かに昇華した。自分が吐き出した声の名残に茫然としながら、その言葉を反芻する。朝の教室がさみしいなんて、感じたことなかったのに。
 小さく息を吸う音が聞こえる。
「ヒイラギ。これ、俺のアドレス。あと一応、ケー番も」
 ポケットから取り出して折りたたまれた紙。受け取って広げると、ノートの端を破った紙だった。そこに走り書きされた十一桁の番号とアルファベットや記号の羅列。
 目の前から落ち着いた口調が、ヒイラギさえ良ければ、と続けた。
「また俺と話してくんないかな。朝の時みたいに」
 その言葉を急には信じられなくて、紙に書かれた文字に彼の気持ちを表す何か、隠されていたりしないかなと見つめるが、勿論そんなのは出てこない。視線を上げると、タカミネくんの遠慮がちな笑顔が見えた。
「関係性の名前なんていらない。……俺はただ、ヒイラギと話したい。ここで終わらせたくねえんだよ」
 それだけ、以上。何か質問ある、と聞かれたけれど、わたしは紙と彼の顔を交互に見つめただけで、何も言わなかった。
 ただ、ぐるぐると混乱する思考で学生鞄を開けて、慌てて筆記用具を出そうとする。
「待って、紙を用意するから……」
「え?」
「別に必要ないかもだけど、私のアドレスも一応、その、あの、」
 もどかしく鞄の中を探っていると、タカミネくんはわたしのペンケースから殆ど使わない油性ペンを取り出して、それをわたしに差し出した。
 ここに書いて、と学ランの袖をまくって手首を見せる。
 鍛えているんだなと直ぐわかる、わたしの細くて頼りない手首とはまるで違う手首。何度も遠慮したけれど、「いいから」と油性ペンを握らせてくる勢いに結局は押し負けて、人生で恐らく初めて人の皮膚にマジックで何かを書くという芸当をやってのけた。
 学ランの袖の下に隠れるであろう、黒い文字をしげしげと眺めるタカミネくんに、わたしの顔は今や夕陽のように赤くなっているはず。
 彼は、狙った軌道でゴールネットを通ったバスケットボールを辿る時とはまた違う満足そうな嬉色を浮かべ、夕陽色に染まる廊下に弾けるように、闊達な笑顔を振り撒く。きらきらと眩しく、熱い生命を溢れさせるように。

「サンキュー、ヒイラギ。――よろしくな」


                了

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  2021.11 Ⓒ 2021 HOSHIZORA KIYU

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