私を月に連れてって
背が高いのは、私のコンプレックスだった。
小学校に入った頃から席は一番後ろで、中学に入った頃にはさらに背が伸びた。高校生となった今なお、ほんの少しずつ伸びている。これでスポーツの才能でもあればよかったが、私はそのような星の元に生まれなかった。
それで虐められることもなかったが、クラスの中を見渡せば、小さくて愛らしい女の子ばかり。そんな時、私は少し猫背になり、できるだけ目立たないようにした。自分でも変な癖だと思う。
そんな私は本が好きだった。活字であれば何でも読んだが、星や宇宙をモチーフにした物語がお気に入りだ。空想科学で人々が宇宙を自由に行き来し、悲喜こもごものドラマを生み出す。そんな物語があれば、時間を忘れて没入できたからだ。
そんなある日、図書室の閉室時間となり、自習していた学生たちは次々に部屋を後にしていった。
図書委員だった私は、いつものように部屋に施錠して職員室に鍵を返しに行く。そんな時、屋上につながる階段を登っていく人影を見た。
確か屋上につながる扉は施錠されていたはず。一旦職員室に向かって鍵を返し、下駄箱に向かったものの、やはり気になる。
少し迷ったものの、好奇心に勝てない。踵を返して屋上につながる階段を登っていくと、扉はやはり開錠されていた。私はそっと扉を開けると、冬の冷たい風が頬を駆けていく。
私は慎重にその先を覗くと、ひとりの男子が何かを熱心に覗き込んでいる。
望遠鏡だ。そのレンズは濃い夕闇に染まる東の空を捉えていた。
ぶつぶつと呟きながら真剣に観察を続ける彼だったが、私の足音に気づいたのか、ゆっくり振り返って声を上げた。
「やあ、見つかってしまったね。」
それが彼との最初の出会いだった。目が合ってしまった以上、走り去ることもできない。
私は声がひっくり返りそうになるのを抑えながら「あ、あの」なんとか声を絞り出した。
「ここで何をしているのですか?」
彼はにっと口角を上げて答えた。
「月が好きなんだ。いろんな顔を見せてくれるから。今日は、満月なんですよ。」
ほら、と指を指す。確かに東の水平線から昇る赤い月が見える。どうやら何か如何わしいものを見ようとしている訳ではないらしい。
「そうなんですか。」
「ほら、見てください。」
彼は望遠鏡を私に差し出した。恐る恐る覗いてみるが、うまく見えない。
「あ、ちょっと待ってね。」
そう言うと、彼は望遠鏡が格納されていたであろうジュラルミンの箱に乗り、器用にその高さと角度を調節し始めた。
彼は私よりも少し、いや、ほんの少しだけ背が低い。なんだか申し訳なく、少し悲しい気持ちになったところで、彼はどうぞともう一度私に促した。私は改めて望遠鏡を覗き込む。
接眼レンズの奥に浮かぶのは、真紅の月。その巨大な姿に目を奪われる。月の表面には、今や傷となったクレーターや、静かに流れる海が、鮮やかに映し出された。
私は、息もできない。こんなにも身近に月を感じたことがなかった。
「すごく、綺麗ですね。」
間抜けな感想だったろうか。彼はまた、満面の笑みを浮かべて自慢げに応えた。
「でしょ?月って、なんだかどきどきするんだ。」
それから私は、図書室の閉室を待ってから、屋上に顔を出して帰るのが日課になった。
昇りかけの紅い月は満ち欠けを繰り返しながら、日々その表情を少しずつ変えていく。そんな月を見上げながら、彼が語る月と星、宇宙の話を聞くのが楽しかった。
聞けば彼は同学年の男の子で、数学科では変わり者で有名らしい。噂好きのクラスメイトによれば、その気さくな性格と人懐っこい顔立ちで、密かに女子の人気も高いとのこと。確かに個性的ではあるが、それも十分に頷ける気がする。
ある日、彼はどこから持ってきたのだろう、長椅子を用意してくれていた。ふたりで並んで座っていると頭ひとつ分、私のほうが大きい。
私はいつものように背を丸め、ぐるぐる巻きのマフラーに首を埋めた。そんな私に気づくでもなく、彼はいつものように屈託のない笑顔で私に語り掛ける。
「ねぇ、月ってなんで地球の周りを廻っているか知ってる?」
「それは、地球の引力で公転しているから…あってる?」
「正解!でもね。」
彼は続けて語る。
「月の女神セレーネは、地上の王子エンデュミオンに恋をしたんだ。でも、彼は美しさと永遠の若さと引き換えに、永遠の眠りについてしまった。それでもセレーネはエンデュミオンに愛を注ぎ続けて、彼女はずっと地球の周りを廻り続けているんだよ。」
へえ、と私が関心していると、彼は続けた。
「でも、彼女は眠りについている彼の子供を五十人産むんだ。神様ってすごいよね。どうやったんだろう?」
と、にやにやする。「ちょっと!」台無しじゃない。私は彼の肩を押してみせる。屈託のない笑顔で笑う彼の横顔は、月光に照らされて綺麗だった。
どきどきする。私は自分を騙しきれなかった。彼が好き。
私ってちょろいんだろうか。でも、気持ちを抑えきれない。帰り道を途中まで送ってくれた彼の後ろ姿を見送りながら、私は焦っていた。もうすぐ春が来る。冬が終われば日の入りは遅くなる。私たちが下校する時間には、月は見えなくなるのだ。
商店街の洋服屋にはすでに春物のコートが陳列されている。そのウィンドウに反射して映る、ひょろ長い自分の姿にため息をついた。
どうしたものだろう。今日も私と彼は昇りかけの月を見上げながら、他愛もない話に興じていた。彼の心地よい声が耳に響く。もはや私は彼を意識するばかり、私はちゃんと会話できているだろうか。
いっそ誰か、私と彼のふたりであの月の世界に連れて行ってほしい。
手を繋ぎたい。キスしてほしい。自分でもどうかしていると思う。
彼は楽しそうに、いつもの笑顔で私に話しかけてくれている。嬉しい、でも。気が付けば私は笑顔で泣きだしてしまった。わっ、わっ、と驚く彼。そりゃそうだろう。
「どうしたの?ごめん、僕、何か酷いこと言った?」
「違うの。ごめんね。私が悪いの。」
私は零れる涙を我慢できなくなってしまった。私は立ち上がって彼に背を向ける。
「もう赤い月が見れなくなったら、私は貴方と逢えなくなるんだなって。そう思ったら、ごめん。ちょっと、悲しくなっちゃって。」
声が震える。人を好きになるって、こんなに辛いのか。それこそ星の数ほど読んできた本でも、それを教えてくれた物語はなかった。
彼は私の前に飛び出すと、私の目を見つめた。その瞳は真剣で熱くて、私の心を焦がす。
「ごめんね。でも、僕は月が見れなくなっても、僕は君と一緒にいたいんだ。君じゃなきゃだめなんだ。」
「それって———」
「好きってことさ。」
彼の言葉が胸に響くと、私の心臓は跳ねるように高鳴った。いっそこのまま死んでも構わない。そんな軽率なことを思いつくくらい舞い上がりそうになる。
しかし、月明かりに長く伸びる彼と私の影が目に映ると、また暗くて重い気持ちが私を包んだ。
「でも、私って、そんなに取柄もなくて。綺麗じゃないし、可愛くもないわ。ほら、こんなに背も高いし———」
そんなこと関係ないよ、と彼は優しく笑った。
「だって、僕が好きなものは、見上げる先に輝くんだからさ。」
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